のなめらかな頬や、細そりした鼻筋や、肉感的な受口の下唇などを、微笑しながら眺めた。
「この頃、やつれたようだね。早く、いい旦那でも見つけたらどうだい。」
それが、少しも皮肉な調子ではなかった。
「ええ。だけど、あたしに旦那がついても、やっぱり逢って下さる。」
「そうさねえ、逢ってくれれば逢ってあげるかも知れないが……。」
「まあー、恩にきせるの。」
突然、彼女はひどく艶をおびた眼付をした。坪井は煙草に火をつけた。そして、東京はもう八方塞がりになってしまったから、郷里の知人に少しまとまった借金を申込んでいるが、それが出来れば面白い、というようなことを無関心な調子で話した。蔦子も、大連にでも行ってしまおうかと思っておばさんに話したら、ひどく叱られた、というようなことを他人事《ひとごと》のように話した。そのうちに腹が空いてきたので、簡単な食事をして、それから別れた。坪井の梟のような眼が、なんだか曇りをおびていた……。
その、何の印象もない頼りない別れかたが、却って蔦子の頭に残った。夕方、おつくりをしてるうちに、それがまた頭に浮んできて、涙ぐましい心地になった。そして夜になっても、どこからもかかってこず一人残っていた。そこへ、おしげが不意に訪れてきたのだった。
「だいじな話ですが……。」
さも秘密らしく、玄関で彼女は蔦子の耳にささやいて、ほかのひとたちが出払ってるがらんとした室の中を、じろりと見渡した。その様子に、蔦子はただならぬものを感じ、ばあやさんにあとをたのんで、おしげを近くの小料理屋の二階に連れていった。
おしげは赤茶けた後れ毛をふるわせ、きつい眼付で、いきなり尋ねかけてきた。
「大連に行くとかいう話は、どうしました。」
その改まった調子に、蔦子はけおされた。笑うことも出来ず、まがおになって、あれはただ一寸したお話で、決してそんなことはしないと誓った。
「それから、」とおしげはなお追及してきた、「あの……わるい人とは、ほんとに別れる決心がつきましたか。」
坪井のことだと分ると、蔦子は返事に迷った。おしげが真剣なだけに、嘘は云えなかった。考え考え答えた。決して悪い人ではないこと、けれど、初めから好きでも嫌いでもないこと、ここで切れようと思えばお互にどうにでもなること、方々に不義理をしているので、それで困って、やはり逢っていること……。そのおしまいの理由が、おしげによくのみこめないらしかった。くわしく説かれて、いくらか分りかけると、ほっとしたような顔をした。
「それでは、お金がどれくらいあったら、すっかりよくなるんですか。」
「どれくらいって、少しでいいのよ。でもそんなこと、おばさんが心配なさらなくってもいいわ。どうにかなるわ。」
蔦子はそこで初めて笑った。おしげに酒をすすめた。おしげは一杯うまそうに干して、それから、両手を懐につきこんで、長い間かかって、郵便貯金の通帳と印章とを取出した。
「これを、すっかりあげるから、役にたてて下さいよ。わたしがもってるものは、何もかもそれだけだから、役にたつように使うんですよ。」
蔦子はあっけにとられた。おばさんにお金の相談をしたのではないと、いくら云っても、おしげはきかなかった。通帳を開いてみると、千円をこした金額なのに、蔦子は更に驚いた。おしげはむりにおしつけた。それではしばらく拝借しとくわといって、蔦子は通帳と印章を帯の間にさしこんだ。その無雑作な手附を、おしげはじっと眺めていたが、またたきもしないその眼から、涙がはらはらと、だしぬけに流れおちた。
「あら、どうしたの、おばさん。」
おしげはなお泣いた。蔦子はすり寄ってその肩に手をかけ、おしげの堅い指先を膝に感ずると、そこから痛みに似たものが胸に伝わってきて、涙ぐんでしまった。
「ねえ、おばさん、あたしこれから一生懸命に働いて、きっと御恩報じをするわ。どうにかなったら、家を一軒持ちたいと思ってるの。そしたら、おばさん来て下さるわね。」
おしげは一語一語うなずいていた。それから泣きやんで、何か美しい幻をでも見るような眼付で、蔦子の顔を見守った。蔦子はしぜんに微笑んでみせた。珍らしくその頬に生々《いきいき》とした血が流れた。おしげはがっくりと卓子によりかかっていたが、小首をかしげてから、杯をとりあげた。
「おばさんと、こうして飲むのは、ほんとに久しぶりよ。」
おしげはだまってうなずいてみせた。蔦子はいろんなとりとめもない話をしながら、杯をかさねた。おしげは殆んど口を利かないで、うなずいてるきりだったが、嬉しそうだった。蔦子の家から電話がかかってきた。蔦子は料理の折詰とお酒の瓶とを包んで、おしげにむりに持たしてやった。御主人にわけを話して、うちでゆっくりおあがりなさいと云った。おしげは帯のところをつっついて、通帳を落さないようにと、何度も注意した。蔦子は子供にでも対するようにうなずいてみせた。
蔦子は家に帰って、鏡台の前に坐ったが、ふいに、何か腹だたしいかのように、かかってきてるお座敷を断らせた。そして鏡の中をぼんやり眺めながら、煙草を吸いながら、考えこんでしまった。
おしげの郵便貯金のこと、彼女の急死のこと、蔦子がその貯金によって救われたこと、それらの話を蔦子から聞かされた時、坪井は心に復雑な[#「復雑な」はママ]衝撃を受けたのだった。それらの話をしながら蔦子は、絶望的とも云えるような朗らかさを示していたが、聞く方の坪井は、次第に憂欝な気分に沈んでいった。
彼はその憂欝の底から、蔦子と知り合った初めのこと、なおそのも一つ前のことを、まざまざと思い浮べるのだった。
彼が勤めていた依田商事会社に、貿易品を取扱う或る大きな株式組織の商会から、金融の相談があった。担保物件は価格明記の倉荷証券で、台湾製のパイナップル缶詰四千箱について、一万二千円の申込だった。その三ダース入の一箱は、当時の担保相場としては五円ほどのもので、一箱三円とはむしろ少額にすぎる要求だった。社長の依田賢造は直ちに承諾した。然るに、それから三ヶ月ほどたって、その三ヶ月が融資期限で、それがきれると、社長は坪井を呼んで、会社のために骨折って貰いたいといいだした。用件というのは、担保流れになっているパイナップル四千箱の倉荷証券で、金融の途を、而も出来るだけ多額の金を、向う一ヶ月間の期限で、見付けてほしいとのことだった。而も第一に相談してみるがよいとて、他のある商事会社の名まであげてくれた。坪井は意外な気がした。他に先輩もあるのに、ただ機械的に事務をとっているだけの無能視されている筈の自分に、そういう大任が、而も内々にということで云いつけられたのである。
「どうだ、やってくれるかね。」
社長はその太い指先で、卓上の万年筆を無関心らしく弄びながら、小さな眼で坪井の顔を眺めていた。やさしくもまた鋭くも見えるその眼の底のものを、坪井は判読しかねて躊躇した。
「では、これからすぐに行って、返事をきいてきてくれないか。」
坪井はいきなり押しつけられて、それに従った。どうにでもなれという気だった。
ところが、先方へいってみると、すぐに主任が自身で逢ってくれた。彼は坪井の説明をきいてから、大体よろしいが、金額の点は一人できめかねるから、後で御返事しようとのことだった。
ただそれだけのことだった。社長は其後、その用件については彼に一言も云わなかった。恐らく先方と直接に話がまとまったのであろう。それから二ヶ月後の年末賞与に、彼は月給の十ヶ月分の包みを貰って驚いた。
「これは特別のはからいだから、内緒にしておいてくれよ。君には今後いろいろ頼みたいこともある。こんな仕事も、次第に面白くなるよ、辛棒し給え。」
社長のその好意が何によるものか、坪井には腑におちなかった。ところが間もなく、例の倉荷証券のことについての、同僚たちのひそひそ話を耳にした。一箱五円五十銭のわりであの証券は他へ担当流れにされてしまったというのである。そうなると、坪井にも凡その想像がついてきた。一万二千円から二万二千円になって、その間のさやは、一体どこにころげこんだのであろう。恐らく依田氏一人の懐へではあるまい。あの少額のままで流してしまった商会の仕打にも、また彼が名目だけの使者に立った話の筋道にも、疑問は持てないことはなかった。彼はやはり平素の通り、他の同僚たちからは除外された形で、非社交的に黙々として事務をとり続けた。そして何かしら息苦しいものを周囲に感じて、賞与をみな使いはたしてやれという気になった。そうした機会に、蔦子と出逢ったのだった。それからはずるずると惰性の赴くままに賞与などは使いはたし、国許から無理な送金を受け、他に借金を拵え、それでもまだ足りなかったのである……。
「考えちゃいけないわよ。」と蔦子ははれやかに云っていた。
その顔を、坪井はぼんやり眺めた。
「そして君は、おばさんの貯金を、全部引出してしまったの。」
「いいえ。どうせ足りやしないでしょう。それも、自由に……看板借りにでもなれるなら、みんな引出したっていいんだけれど……。少しは残しておかなくちゃ、可哀そうよ。」
「可哀そうって……誰に……。」
「……ただ……坪井さん、そんな気がしない……。」
「うむ……。だが、君は朗かそうじゃないか。」
「ええ朗かよ。これから、うんと働いてやるわ。」
自分の腕からするするとぬけだしていく彼女を、坪井は感じたのだった。そして何かが……単に彼女自身でもなくおばさんでもないだろう……何かが、可哀そうだという気持で、而もそこに朗かに立ってる彼女は、一寸したことで、ひどい莫連に向うか生真面《きまじめ》に向うか、どうせ中途半端ではすみそうもない、危い瀬戸際にあるようだった。そして坪井も、自分が同じ様な瀬戸際にあるのを感じた。彼は半ば自棄的な苦笑を浮べて云った。
「どうだい、僕と結婚しないか。」
「だめよ。」
「なぜ。」
「なぜでも……。結婚するくらいなら、あたしたち、情死《しんじゅう》しちゃうかも知れないわね。」
「じゃあ、情死しようか。」
「ええ、いいわ。……あたし今日は、酔いたいの。酔って……駄々をこねてもいいでしょう。」
だが、坪井は少しも酔いたくはなかった。胸の底にへんにまじまじと眼醒めてるものがあって、そいつが、蔦子を、また彼自身を、じっと見つめていた。
「おばさんは、いくつだったの。」
「五十……九かしら。でも、年よりずっと老けてたわ。」
彼女は眉根をくもらせて、杯をとりあげた。坪井も杯をとった。そうして酒をのむのはばかばかしかったが、ばかばかしいことは、一番ほかに仕様のないことかも知れなかった。そして彼はまた考えこんだ。おばさんの死の前後のことをもっとくわしく聞きたかったが、蔦子はもうそんなことに心を向けたくないらしかった。生きてる者の、生きてる間だけのこと……そういうところに彼女の気持はあった。それなのに、彼女の真剣に生きることを何が妨げているのか。坪井はまた考えこんだ。
「考えちゃいけないわ。」
「考えやしないよ。」
そして坪井は立上ったのだった。
「帰るの。」
「うむ。」
蔦子は別に引止めなかった。坪井は一人で、薄ら寒い春先の夜更の街路を歩いていった。俺がもし金をもっていたら、蔦子なんかには眼もくれないかも知れないと、そんなことが考えられるのだった。もしひどくせっぱつまったら、彼女を殺すかも知れないと、そんなことも考えられるのだった。
それから一ヶ月ばかりの間――その頃坪井は島村陽一に一寸逢ったのだが――坪井は薄暗い憂欝のなかに浸りこむと共に、蔦子からも次第に遠のいてゆくようだったが……。
或る日、坪井は会社で、また社長の依田賢造から呼ばれた。
「君にまた頼みたい用件が出来たよ。」
依田氏は声をひそめて云った。これから某会社の専務取締のところへ出かけていって、現金七千円と引替に、一ヶ月期限の約束手形八千円の証書を貰ってきてほしいと、ただそれだけのことだった。但し振出人は先方の専務個人で、宛名はこちらの会社だから、それを注意してこなければならなかっ
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