、しっくりと話がしにくいように思えた。殊にその細そりした鼻筋と受け口の下唇とが、変に彼女の心を反撥した。彼女はそのことを島村に云った。それで、島村が話を引受けた。
合間を見計って、島村は彼女を別宅によんで、おしげの貯金のことを話しだした。よく知っておりますとの、事もなげな返事だった。
「昨日《きのう》来ました時、貯金と通帳と印章《はん》を、あたしのところへ置いていきました。あなたにあげると云っていましたけれど、こんなことになりましたので、お葬いの費用やなんか、それから致したいと思っていますの……。」
「なに、そんなことはどうでもいいんですが、そうしたものがあったということを、あなたが知ってさえおれば、それでいいんです。本人がたいへん気にしていたようですから……。」
「よく存じております。」
それだけで話はすんだ。彼女は涙ひとつ浮べず、頬の筋肉を硬ばらして、心の扉をかたく閉め切ってるようだった。それにあまり長く対座してもいられなかった。いろいろ用があった。
おしげの棺が、その夕方、本所の方へ運ばれていく時、若い女中はすすり泣いていた。十歳をかしらの子供たちは、慴えたような不思議な様子で、寄り添って棺を見送った。
それから一週間ばかりたって、蔦子がふいに訪れてきた。其後、島村は一度さる料亭で彼女に逢った。なお、一ヶ月ほど後に、蔦子と深い仲になっていた坪井宏の訪問を受け、次いで上海から可なり詳しい手紙を貰った。そして彼等のことが島村にも大体分ったのだったが、真相がはっきり掴めたのは、それよりもずっと後になってからのことだった。それ故、叙述の筆はここで島村陽一から離れざるを得ないのである。なお序に云っておけば、おしげの遺骨は、暫く寺に預けておかれた後、蔦子の手で郷里の墓地に納められた。
蔦子は島村のところでは一生懸命にとり澄していたが、そうした態度をとらなければいられなかったほど、おばさん――おしげ――の急死に心打たれたのだった。死因ははっきり説明してきかされたし、疑わしい点もなかったが、最後に逢った晩のことが、いつまでも頭について離れなかった。それに丁度、ひるま、坪井と頼りない別れかたをしたばかりのところだった。
坪井が五十円の金を都合してきて、不義理のない新らしい出先で前晩から逢って、朝九時頃に起上り、それから正午頃まで、二三本の銚子だけで、ぼんやり過してしまったその時のことが、まるで夢の中のようだった。別に話すこともなかった。薄曇りの昼間の明るみの中で、そうして差向いになっていると、坪井が好きなのかどうかさえ分らなくなってくるのだった。
もともと、好きあった仲でもなかった。坪井はどこか田舎者めいたがっしりとした体格で、流行唄とききかじりの端唄とに柄《がら》にない節廻しを見せるきりで、好きだからというのでなくただ飲むために飲むという風に、どこか捨鉢な速度で酒杯を重ね、その飲みかたに蔦子もひきこまれて、酔った揚句、偶然といってもよい程のことで出来合ったのだった。而も蔦子にしてみれば、抱えの身ではあり、出てから四年にしかならないし、堅くしていられる身分でもなかったので、普通の稼ぎにすぎなかった。それが、次第に馴れあってゆくに従って、いつしか深くなってしまったのである。そしていくらか噂にものぼり、朋輩たちからからかわれて、珈琲を奢らされるのが嬉しくなる頃になると、坪井の方では金に困ってきた。そして坪井は皮肉になり、嫉妬の情を示すようになり、それと丁度同じ比例で、蔦子の心は坪井へ傾いていった。その頃から、お互に無理をしあい、出先へは不義理がかさなっていった。それがお互の気持を煽って、屡々逢わずにはいられなくなったのだった。そうなっても、不思議なことには、本当の愛が二人の心を繋いでるかどうか疑問だったし、それかといって、別れてしまうことが出来るかどうかも疑問だった。
寒いからっ風の強い晩、十時すぎ、蔦子はもう可なり酔って、お座敷から帰りかけた。その時、そこの電車通りの、さほど明るくない絵葉書やの前に、マントの男が、首を傾《かし》げたまま棒のように立っていた。蔦子はつかつかと歩みよって、黙って肩をならべた。いつまでも男がじっとしているので、彼女はじれったくなって声をかけた。
「坪井さん……。」
振向いた坪井の顔には、淋しい苦笑が浮んでいた。
「いつまで、何をしていらしたの。あたしが分ってたくせに……。」
「うむ……考えていたんだ。」
二人は一寸顔を見合ったが、蔦子はいきなり彼を引張って歩きだした。
「いいわ、あたしに任しといて頂戴。」
狭い通りにはいっていって、蔦子の知ってる初めての家に上りこんだ。そういう時のいつもの癖で、坪井は何だか落付がなく不機嫌だった。何かと嫌味を云ったり、わざと冷淡な調子を見せた。蔦子もそれを平然と受流して笑いながら、でたらめな調子になった。酒の飲み方が早くなり、流行唄をくちずさんだりして、そして坪井は何度も立ちかけた。まだ早いわと蔦子は云った。それがしまいには、帰るのがいやと云いだした。その時にはもう、二人とも酔っていた。酔ってからの時間は、知らないまにたってしまう。坪井は腹をたててるようだった。蔦子はひどく冷淡になっているようだった。
「今晩は送っていかないよ。」
「ええ、どうぞ。」
蔦子は足がよろけていた。表通りで坪井に別れると、彼女は電柱によりそったり、時々立止っては熱い息を吐き、そしてまたふらふらと歩き出した。島田にいった頭が、風に吹かるる罌粟の花のように揺いでいた。お座敷着の身体が細そり痩せて、黄色のかった帯が大きく目立っていた。その後ろから、坪井は見えがくれにつけていった。狭い裏通りを、遠廻りにぐるりとまわって、彼女は家の前までいくと、そこの格子わきの柱に両手でよりかかって、その手の甲に額をおしあて、いやいやをしながら甘えるように身体を揺っていた。
「何をしてるの。」
坪井が歩みよって声をかけると、彼女はきょとんとした顔をあげて、遠くを見るような眼で眺めた。
「まだ帰らないの……。大丈夫よ、酔ってなんかいないから……。」
大きな声なので、坪井は、酔いきれないでいる胸のどこかで気がひけて、彼女の手を握りしめて低く云った。
「じゃあ、僕は帰るよ、早く家におはいりよ。」
彼女ががらりと格子を引開けたとたんに、坪井ははっと身を引いて、両手を懐の中で組合せ、首垂れて、真直に歩き出した。もう何時頃なのか、人通もまばらで、小さなカフェーや小料理屋の中だけが、明るく、而も静かだった。彼はうるさい空自動車をよけながら、いつしか不忍池の方へ出て、寒い風に吹きさらされてる池の面を眺めやった。そこへ、ふいに、蔦子が馳けつけて、彼に縋りついた。
「どうしたの……。」
「探したわよ、随分。何だか心配になって……。」
酔ったまま緊張した彼女の顔が、石のように冷たく見えた。それだけで、坪井の眼は涙でくもった。
「いやよ、家に帰るのはいや。」
「僕もいやだ。一緒に歩こう。」
池のほとりを少し歩いて、それでもすぐにまた、二人は先刻出て来たばかりの家の方へ戻っていった。そして、表の戸を叩いて、出て来た女中へ蔦子が何やら囁いてる間、坪井はそこの物影にしょんぼり立っていた……。
そうした感傷的な酔狂が、二人の不義理の範囲を少しずつ拡げていって、坪井に金が出来なくなると、その負担が蔦子の上にかぶさってきた。蔦子のところの姐さんはそれを見るに見かねて、初めはそれとなく注意を与えていたが、しまいにはほんとに心配しだして、まじめに意見をすることもあった。それが、しらふの蔦子にとっては、済まないように思われたり擽ったく思われたりした。坪井とは、お互に、いつでも切れてしまえるつもりでいた。そうした油断が、だんだん二人を深みへ引きずりこんで、従って不義理が方々にかさんできた時、初めて顧みると、もうどうにも出来ないような状態になっていた。坪井だけのことならばいいけれど、彼女自身の方々の出先に対する不義理は、やがて彼女にとっては土地にいられないことを意味するものだった。そして彼女はふと、大連行きのことを考えたのである。或る朋輩が、先年大連に住みかえて、今では大変のんきに仕合せに暮しているという便りを、一寸耳にしたのがもとで、いろいろ聞き合せてみると、ひどい処のようでもあれば、らくな処のようでもあり、とにかく、彼女の無智な想像力がひどく煽られた。それでも、その大連行きということも、結局は気紛れな想像にすぎなかったが、或る日姐さんから少し手きびしい注意を受けて、この頃のお前さんの評判はとてもよくないとか、いつまでもそんなじゃあ家においとくわけにはいかないなどと云われると、急に淋しくなって、何となしに、おばさんに――おしげに――電話をかけてしまった。おしげは心配してやって来た。それを口実にして、一緒に近所の映画を一寸のぞき、帰りにソバ屋で休んだのだった。
おしげの顔を見ると、蔦子はいつも母親にめぐりあったような気になり、どんなことでも甘えられるのだった。時々の小遣や贈物など、するだけのことはしているという腹が、猶更甘えやすくするのだった。そのおしげが、映画をみてもソバをたべても、ちっとも楽しそうな顔をせず、落付のない眼付でそっと蔦子の様子を窺っているらしいのが、蔦子には意外だった。
「なにか、相談ごとがあると云っていたじゃありませんか。」
とうとうおしげからそう尋ねられると、蔦子は笑いだした。
「ええ。でももういいのよ、おばさん。」
おしげは呆れかえったように、歯の一本欠けてる口をもぐもぐさした。それからまた心配そうに、どんなことでも打明けてくれなければいけないとも云った。わたしはお前一人が頼りだとも云った。
「ほんとにいいのよ。」と蔦子は云った。「ただちょっと……大連にでも行ってみようかと、そんなこと考えたことがあったけれど……。」
「え、大連に……とんでもない……。どうしてまたそんなことを……。」
おしげが余りびっくりしたので、蔦子はへんにしみじみとした気持になって、この土地ではいろいろ働きにくいことを話しはじめた。むすめさんだとか、おしゃくから出てるひとだとか、よい看板の家から長年出てるひとだとか、そうした区別がやかましいことなどを述べた。おしげの方では、大連という土地が、まるで地獄のように遠いひどい処だと云いたてた。そんなことから、蔦子は、坪井のことやその結果の不始末のことなどを、つい話してしまった。おしげの顔はひどく曇った。
「その人と、いっしょになるつもりですか。」
「いいえ、おばさん、そんなんじゃないのよ。すっかり切れてしまうつもりだけれど、さしあたって、お出先への不義理を片附けなければならないから、それで困ってるのよ。あたしがばかだったの……。」
それでもおしげは、ほんとにその人とは別れるつもりかと、何度も念を押した。蔦子は眼を丸くした。これからよい旦那をみつけて、おばさんにも楽をさしてあげると、なだめるように誓った。おしげは深く溜息をついていた……。
そうした翌日の晩、坪井がお金をこさえてきて、二人でのんびり飲みくらして、翌朝正午頃までも、ぼんやり顔を見合せたのだから、思いだすと、蔦子はおかしくてたまらなかった。
彼女は坪井の顔を眺めながら、自分はほんとにこの人を好きなのだろうかと考えてみた。髪の毛のこわい、色の浅黒い、がっしりした体格で、濃い眉の下に、眼がくるくるっと太く丸く見えるのが特長だった。それを見てると、彼女は梟の眼を思いだした。
「ねえ、坪井さんと情死《しんじゅう》したら、あたしたちのこと、新聞に出るでしょうか。」
「そりゃあ、一応は出るだろうよ。」
それだけで、坪井もぼんやりしていた。第一、情死だとかいっしょになるとか、愛の誓いだとか、そんなこととは凡そ縁の遠い二人の関係だった。それでも深い仲で、無理をしいしい逢い続けて、馴れない家の二階に追いつめられてる身の上だった。それにまた、蔦子の方はもとより、坪井の方も、性的の強い慾望もないのだった。坪井は珍らしそうに、蔦子
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング