いようにと、何度も注意した。蔦子は子供にでも対するようにうなずいてみせた。
 蔦子は家に帰って、鏡台の前に坐ったが、ふいに、何か腹だたしいかのように、かかってきてるお座敷を断らせた。そして鏡の中をぼんやり眺めながら、煙草を吸いながら、考えこんでしまった。

 おしげの郵便貯金のこと、彼女の急死のこと、蔦子がその貯金によって救われたこと、それらの話を蔦子から聞かされた時、坪井は心に復雑な[#「復雑な」はママ]衝撃を受けたのだった。それらの話をしながら蔦子は、絶望的とも云えるような朗らかさを示していたが、聞く方の坪井は、次第に憂欝な気分に沈んでいった。
 彼はその憂欝の底から、蔦子と知り合った初めのこと、なおそのも一つ前のことを、まざまざと思い浮べるのだった。
 彼が勤めていた依田商事会社に、貿易品を取扱う或る大きな株式組織の商会から、金融の相談があった。担保物件は価格明記の倉荷証券で、台湾製のパイナップル缶詰四千箱について、一万二千円の申込だった。その三ダース入の一箱は、当時の担保相場としては五円ほどのもので、一箱三円とはむしろ少額にすぎる要求だった。社長の依田賢造は直ちに承諾した。然る
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