しまったその時のことが、まるで夢の中のようだった。別に話すこともなかった。薄曇りの昼間の明るみの中で、そうして差向いになっていると、坪井が好きなのかどうかさえ分らなくなってくるのだった。
 もともと、好きあった仲でもなかった。坪井はどこか田舎者めいたがっしりとした体格で、流行唄とききかじりの端唄とに柄《がら》にない節廻しを見せるきりで、好きだからというのでなくただ飲むために飲むという風に、どこか捨鉢な速度で酒杯を重ね、その飲みかたに蔦子もひきこまれて、酔った揚句、偶然といってもよい程のことで出来合ったのだった。而も蔦子にしてみれば、抱えの身ではあり、出てから四年にしかならないし、堅くしていられる身分でもなかったので、普通の稼ぎにすぎなかった。それが、次第に馴れあってゆくに従って、いつしか深くなってしまったのである。そしていくらか噂にものぼり、朋輩たちからからかわれて、珈琲を奢らされるのが嬉しくなる頃になると、坪井の方では金に困ってきた。そして坪井は皮肉になり、嫉妬の情を示すようになり、それと丁度同じ比例で、蔦子の心は坪井へ傾いていった。その頃から、お互に無理をしあい、出先へは不義理がかさなっていった。それがお互の気持を煽って、屡々逢わずにはいられなくなったのだった。そうなっても、不思議なことには、本当の愛が二人の心を繋いでるかどうか疑問だったし、それかといって、別れてしまうことが出来るかどうかも疑問だった。
 寒いからっ風の強い晩、十時すぎ、蔦子はもう可なり酔って、お座敷から帰りかけた。その時、そこの電車通りの、さほど明るくない絵葉書やの前に、マントの男が、首を傾《かし》げたまま棒のように立っていた。蔦子はつかつかと歩みよって、黙って肩をならべた。いつまでも男がじっとしているので、彼女はじれったくなって声をかけた。
「坪井さん……。」
 振向いた坪井の顔には、淋しい苦笑が浮んでいた。
「いつまで、何をしていらしたの。あたしが分ってたくせに……。」
「うむ……考えていたんだ。」
 二人は一寸顔を見合ったが、蔦子はいきなり彼を引張って歩きだした。
「いいわ、あたしに任しといて頂戴。」
 狭い通りにはいっていって、蔦子の知ってる初めての家に上りこんだ。そういう時のいつもの癖で、坪井は何だか落付がなく不機嫌だった。何かと嫌味を云ったり、わざと冷淡な調子を見せた。蔦子もそれを平然と受流して笑いながら、でたらめな調子になった。酒の飲み方が早くなり、流行唄をくちずさんだりして、そして坪井は何度も立ちかけた。まだ早いわと蔦子は云った。それがしまいには、帰るのがいやと云いだした。その時にはもう、二人とも酔っていた。酔ってからの時間は、知らないまにたってしまう。坪井は腹をたててるようだった。蔦子はひどく冷淡になっているようだった。
「今晩は送っていかないよ。」
「ええ、どうぞ。」
 蔦子は足がよろけていた。表通りで坪井に別れると、彼女は電柱によりそったり、時々立止っては熱い息を吐き、そしてまたふらふらと歩き出した。島田にいった頭が、風に吹かるる罌粟の花のように揺いでいた。お座敷着の身体が細そり痩せて、黄色のかった帯が大きく目立っていた。その後ろから、坪井は見えがくれにつけていった。狭い裏通りを、遠廻りにぐるりとまわって、彼女は家の前までいくと、そこの格子わきの柱に両手でよりかかって、その手の甲に額をおしあて、いやいやをしながら甘えるように身体を揺っていた。
「何をしてるの。」
 坪井が歩みよって声をかけると、彼女はきょとんとした顔をあげて、遠くを見るような眼で眺めた。
「まだ帰らないの……。大丈夫よ、酔ってなんかいないから……。」
 大きな声なので、坪井は、酔いきれないでいる胸のどこかで気がひけて、彼女の手を握りしめて低く云った。
「じゃあ、僕は帰るよ、早く家におはいりよ。」
 彼女ががらりと格子を引開けたとたんに、坪井ははっと身を引いて、両手を懐の中で組合せ、首垂れて、真直に歩き出した。もう何時頃なのか、人通もまばらで、小さなカフェーや小料理屋の中だけが、明るく、而も静かだった。彼はうるさい空自動車をよけながら、いつしか不忍池の方へ出て、寒い風に吹きさらされてる池の面を眺めやった。そこへ、ふいに、蔦子が馳けつけて、彼に縋りついた。
「どうしたの……。」
「探したわよ、随分。何だか心配になって……。」
 酔ったまま緊張した彼女の顔が、石のように冷たく見えた。それだけで、坪井の眼は涙でくもった。
「いやよ、家に帰るのはいや。」
「僕もいやだ。一緒に歩こう。」
 池のほとりを少し歩いて、それでもすぐにまた、二人は先刻出て来たばかりの家の方へ戻っていった。そして、表の戸を叩いて、出て来た女中へ蔦子が何やら囁いてる間、坪井はそこの物影にしょんぼり立ってい
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