ありませんよ。いつか一度、生きているうちに、きっと役にたつことがあるもんです。わたしに貯金がなかったら、あの娘はどうでしょう……。役にたったんですよ。十年間の苦労が、役にたったんです。もうこれで、わたしは何にも思い残すことはありません。ほっとしました。それが、まだあの娘には分らないんですからねえ……。無理もありません、まだ若いんですから……。わたしくらいの年になると、役にたってほっとしたという気持が、どんなものだか、ようく分りますよ。そりゃあわたしだって、一日二日は考えました。考えたからって、決して惜しがったわけじゃあありません。ほんとに役にたつかどうか、それが肝腎ですからね。十年間の苦労でしょう。それが役にたてば、誰だってほっとしますよ。もう何にも考えることはありません。わたしはあの娘のために、ほんとに仕合せですよ。」
だが、頭をふりふり、そんなお饒舌《しゃべり》をしながら、彼女は泣いているのだった。酒をのんで、眼がどんよりしてくると、足がしびれたらしく、膝頭を両手でもみ初めた。その時にはもう、若い女中はうとうとしていた。おしげは折箱と酒瓶とを片附けて、押入のなかに頭をつきこんで、行李のなかをかきまわして、みち子の美しい芸妓姿の写真を、幾枚も、また改めて、彼女に見せるのだった。それから、床を並べて寝てからも、彼女が眠ってしまうまで、あかずにそれらの写真をみていた……。
若い女中のそうした話が、島村夫妻の心を惹いた。殊には千円余りだと額面まで聞きかじっていた貯金を、そのままにしておくわけにはいかないように考えられた。おしげの荷物を調べるのは憚られるが、何か深い関係がありそうなみち子へ、内々耳に入れておく方がよさそうだ。
蔦子という名前で芸妓に出てた彼女は、本所の折箱屋夫婦に連れられて、初めて島村の家の敷居をまたいだ。おとなしい七三のハイカラに髪を結って、指輪もすっかりぬきとっていたが、その全体の感じが、島村の妻君は何となくなじめなかった。痩せがたの、顔立も相当ととのった、二十二三の女だったが、縁のたるんだ浮わついた眼、生気と血色との乏しい滑らかな頬、顔は殆んど素肌で頸筋を白くぬった化粧の工合、襟のくり方が素人とちがう黒の紋服の着附工合、腰から膝への体重のもたせ方など、その全体の感じに、いつでもひょいと動きだしそうな不安定さがあって、病身の神経質な島村の妻君には、しっくりと話がしにくいように思えた。殊にその細そりした鼻筋と受け口の下唇とが、変に彼女の心を反撥した。彼女はそのことを島村に云った。それで、島村が話を引受けた。
合間を見計って、島村は彼女を別宅によんで、おしげの貯金のことを話しだした。よく知っておりますとの、事もなげな返事だった。
「昨日《きのう》来ました時、貯金と通帳と印章《はん》を、あたしのところへ置いていきました。あなたにあげると云っていましたけれど、こんなことになりましたので、お葬いの費用やなんか、それから致したいと思っていますの……。」
「なに、そんなことはどうでもいいんですが、そうしたものがあったということを、あなたが知ってさえおれば、それでいいんです。本人がたいへん気にしていたようですから……。」
「よく存じております。」
それだけで話はすんだ。彼女は涙ひとつ浮べず、頬の筋肉を硬ばらして、心の扉をかたく閉め切ってるようだった。それにあまり長く対座してもいられなかった。いろいろ用があった。
おしげの棺が、その夕方、本所の方へ運ばれていく時、若い女中はすすり泣いていた。十歳をかしらの子供たちは、慴えたような不思議な様子で、寄り添って棺を見送った。
それから一週間ばかりたって、蔦子がふいに訪れてきた。其後、島村は一度さる料亭で彼女に逢った。なお、一ヶ月ほど後に、蔦子と深い仲になっていた坪井宏の訪問を受け、次いで上海から可なり詳しい手紙を貰った。そして彼等のことが島村にも大体分ったのだったが、真相がはっきり掴めたのは、それよりもずっと後になってからのことだった。それ故、叙述の筆はここで島村陽一から離れざるを得ないのである。なお序に云っておけば、おしげの遺骨は、暫く寺に預けておかれた後、蔦子の手で郷里の墓地に納められた。
蔦子は島村のところでは一生懸命にとり澄していたが、そうした態度をとらなければいられなかったほど、おばさん――おしげ――の急死に心打たれたのだった。死因ははっきり説明してきかされたし、疑わしい点もなかったが、最後に逢った晩のことが、いつまでも頭について離れなかった。それに丁度、ひるま、坪井と頼りない別れかたをしたばかりのところだった。
坪井が五十円の金を都合してきて、不義理のない新らしい出先で前晩から逢って、朝九時頃に起上り、それから正午頃まで、二三本の銚子だけで、ぼんやり過して
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