た……。
そうした感傷的な酔狂が、二人の不義理の範囲を少しずつ拡げていって、坪井に金が出来なくなると、その負担が蔦子の上にかぶさってきた。蔦子のところの姐さんはそれを見るに見かねて、初めはそれとなく注意を与えていたが、しまいにはほんとに心配しだして、まじめに意見をすることもあった。それが、しらふの蔦子にとっては、済まないように思われたり擽ったく思われたりした。坪井とは、お互に、いつでも切れてしまえるつもりでいた。そうした油断が、だんだん二人を深みへ引きずりこんで、従って不義理が方々にかさんできた時、初めて顧みると、もうどうにも出来ないような状態になっていた。坪井だけのことならばいいけれど、彼女自身の方々の出先に対する不義理は、やがて彼女にとっては土地にいられないことを意味するものだった。そして彼女はふと、大連行きのことを考えたのである。或る朋輩が、先年大連に住みかえて、今では大変のんきに仕合せに暮しているという便りを、一寸耳にしたのがもとで、いろいろ聞き合せてみると、ひどい処のようでもあれば、らくな処のようでもあり、とにかく、彼女の無智な想像力がひどく煽られた。それでも、その大連行きということも、結局は気紛れな想像にすぎなかったが、或る日姐さんから少し手きびしい注意を受けて、この頃のお前さんの評判はとてもよくないとか、いつまでもそんなじゃあ家においとくわけにはいかないなどと云われると、急に淋しくなって、何となしに、おばさんに――おしげに――電話をかけてしまった。おしげは心配してやって来た。それを口実にして、一緒に近所の映画を一寸のぞき、帰りにソバ屋で休んだのだった。
おしげの顔を見ると、蔦子はいつも母親にめぐりあったような気になり、どんなことでも甘えられるのだった。時々の小遣や贈物など、するだけのことはしているという腹が、猶更甘えやすくするのだった。そのおしげが、映画をみてもソバをたべても、ちっとも楽しそうな顔をせず、落付のない眼付でそっと蔦子の様子を窺っているらしいのが、蔦子には意外だった。
「なにか、相談ごとがあると云っていたじゃありませんか。」
とうとうおしげからそう尋ねられると、蔦子は笑いだした。
「ええ。でももういいのよ、おばさん。」
おしげは呆れかえったように、歯の一本欠けてる口をもぐもぐさした。それからまた心配そうに、どんなことでも打明けてくれなければいけないとも云った。わたしはお前一人が頼りだとも云った。
「ほんとにいいのよ。」と蔦子は云った。「ただちょっと……大連にでも行ってみようかと、そんなこと考えたことがあったけれど……。」
「え、大連に……とんでもない……。どうしてまたそんなことを……。」
おしげが余りびっくりしたので、蔦子はへんにしみじみとした気持になって、この土地ではいろいろ働きにくいことを話しはじめた。むすめさんだとか、おしゃくから出てるひとだとか、よい看板の家から長年出てるひとだとか、そうした区別がやかましいことなどを述べた。おしげの方では、大連という土地が、まるで地獄のように遠いひどい処だと云いたてた。そんなことから、蔦子は、坪井のことやその結果の不始末のことなどを、つい話してしまった。おしげの顔はひどく曇った。
「その人と、いっしょになるつもりですか。」
「いいえ、おばさん、そんなんじゃないのよ。すっかり切れてしまうつもりだけれど、さしあたって、お出先への不義理を片附けなければならないから、それで困ってるのよ。あたしがばかだったの……。」
それでもおしげは、ほんとにその人とは別れるつもりかと、何度も念を押した。蔦子は眼を丸くした。これからよい旦那をみつけて、おばさんにも楽をさしてあげると、なだめるように誓った。おしげは深く溜息をついていた……。
そうした翌日の晩、坪井がお金をこさえてきて、二人でのんびり飲みくらして、翌朝正午頃までも、ぼんやり顔を見合せたのだから、思いだすと、蔦子はおかしくてたまらなかった。
彼女は坪井の顔を眺めながら、自分はほんとにこの人を好きなのだろうかと考えてみた。髪の毛のこわい、色の浅黒い、がっしりした体格で、濃い眉の下に、眼がくるくるっと太く丸く見えるのが特長だった。それを見てると、彼女は梟の眼を思いだした。
「ねえ、坪井さんと情死《しんじゅう》したら、あたしたちのこと、新聞に出るでしょうか。」
「そりゃあ、一応は出るだろうよ。」
それだけで、坪井もぼんやりしていた。第一、情死だとかいっしょになるとか、愛の誓いだとか、そんなこととは凡そ縁の遠い二人の関係だった。それでも深い仲で、無理をしいしい逢い続けて、馴れない家の二階に追いつめられてる身の上だった。それにまた、蔦子の方はもとより、坪井の方も、性的の強い慾望もないのだった。坪井は珍らしそうに、蔦子
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング