ど親切な者はありませんよ。わたしは今日、みち子……みち子……と、胸の中でくりかえして帰ってきました。わたしに御馳走をしてくれましてね、その上、これをぜひ持っていって、たべてから、ぐっすりおやすみなさいと、どうしてもきかないんです。それというのも、わたしが泣いたからですよ。嬉しいから泣くんだと、いくら云っても分らないらしい……。若い者って、そうですかねえ。悲しいから泣くのはあたりまえで、ほんとうに泣くのは、嬉しくて泣く時ですよ。あんたにも、分らないかも知れないねえ。年をとってくると、悲しいのなんか何ともありゃあしません。嬉しい時こそ、涙がぼろぼろ出て来ますよ。あの娘があんまり心配するんで、可哀そうになりましたよ。だけど、有難いものですね。こうしてお料理とお酒とをもたしてくれたんですものね。帰ったら、御主人にすっかりわけを話して、お酒をのんで下さいと、そういってきかないんです。そりゃあね、旦那様も奥様も、ほんとによい方で、話せば何でも分っては下さるけれど……。お起しして……いえ、やめたがいいですね。よいお方だけれども、わたしから云わせると、ただ一つお分りにならないことがある。……あんな風に、ありったけお金を使ってしまって……それも、無くなればまたはいるからよいようなものの、世の中は、いつもそうばかりはいきませんよ。貯金をしておかなければいけません。あんたなんかも、これから心掛けて、いくらでもよいから、貯金をなさい。わたしは、これで、もう十年近く、一生懸命に貯金してきましたよ。十年といえば、長いものです。あんたは、丁度だから、十年たてば、三十……女の二十と三十とは、たいへんなちがいですよ。その時になって、あわてても、貯金がなくては、どうにも出来ません。わたしなんか、活動ひとつ見るじゃなし、買い食いなんてことも、一度もしたことはありません。それでも、やれ歯が痛いとか、風邪をひいたとか、なんとかかんとか、人間の身体というものは、お金がいるように出来ています。それから、ふだんの心掛け……。肌襦袢とお腰と紙だけは、白いきれいなものを使わなければ、女の恥ですよ。襦袢の襟が汚れていたり、黒い浅草紙を使ったりしてごらんなさい……みられたものじゃありません。なに、いくらもかかるものですか。わたしだって、そうしたなかから貯金をしてきたんです。貯金をするったって、あの世にしょっていくためじゃ
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