て貯金が千円余りになってることを、そっと打明けられた時、島村の妻君は少なからず驚かされたのだった。
おしげは、死ぬ三日前に、みち子から電話で呼ばれて半日隙をもらって出かけていった。帰ってくると、何かじっと考えこんで、も一人の女中にもろくに口を利かなかった。それから中一日おいて、晩に、またみち子のところへ出かけていった。そしてその翌朝は、もう死体になっていたのである。その前夜の様子を、島村の妻君はくわしく若い女中から聞いた。
島村の妻君は、病身なので、大抵九時頃には床につくのだったが、その晩は、島村も早く寝てしまった。その後に、おしげは帰ってきた。
奥は皆さんおやすみになったというのを聞いて、おしげは一本欠けてる歯並を見せて、にやりとした。その笑いが、変に凄みをおびて見えたが、すぐに、いつもの善良な笑顔に返って、風呂敷包を開いてみせた。きんとんや蓮や蝦や肴などの煮物の折詰と、酒の二合瓶がはいっていた。これまでに嘗てないことなので、女中がびっくりしていると、今日は特別にないしょだよとおしげは云って、笑っていた。その様子がまた嘗て見ないほど上機嫌だった。内心に何か感情の昂《たか》ぶりがあって、それが上機嫌となって発散してるかのようだった。その上、少し酒を飲んできているらしかった。彼女はいやに頭を小刻みに揺り動かしながら台所に立っていって、二合瓶をそのままお燗してきた。どうかすると銚子の底に残ってる酒を一二杯のむことはあったが、自分で酒を買ってきて内緒で飲むということは、まだ一度もなかったのである。
「これは、あの娘《こ》がくれたんです。あんたなんかがまねしてはいけませんよ。いいですか。」
睥むようにそう云って、そして彼女は笑った。それから折詰の物をつっつき、酒をのみはじめ、女中にもすすめた。だが無理には強いなかった。若いうちは酒をのまない方がよいとも云った。そしてふいに思いだしたように、奥に御挨拶をしてきたいがお起ししては悪いかしらとも云った。同じことを何度もくり返し云ったり、矛盾したことを云ったりした。そのうちに、ふいに涙ぐんで、その涙に誘われて泣きだした。泣きながら笑った。泣くのが嬉しく、笑うのが悲しい、そういう調子になっていった。うすい少い髪の毛が、色艶を失ってぱさぱさで、そのくせ、皺よった厚ぼったい顔の皮膚が、ぼーっと上気《じょうき》していた。
「あの娘ほ
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