だけが生々《いきいき》と輝いていた。島村は電話口へいった。
晩春の白々しい夜明の光が、欄間の硝子戸から、電燈の明るみの中にさしこんでいた。
島村と懇意な田中医学博士が、急報をきいてすぐに来てくれた。おしげは死後四五時間経過したらしく、策の施しようがなかった。死因に怪しい点はなかったが、家族ではなく、急死なので、一応警察医の立会も求めることになった。既往症は動脈硬化、脳溢血による急死……。恐らく夜中に軽い苦悶を覚えて、水を飲みに立っていった時、急激な脳溢血で倒れたものであろう。もう六十歳になっていた。「死因は明かだが、そうした脳溢血を招いた間接の原因が何かあるかも知れない……、」と田中は島村に囁いた。彼女の縁故としては、東京には本所で小さな折箱屋をやってる遠縁の者と、下谷で芸奴になってる姪の娘きりだった。それらの人たちを呼んで、島村の家で死体を棺に納め、一通りの読経をし、遺骨を郷里の新潟県下に運ぶことになった。
知人の紹介で島村のところに世話になってる三ヶ年余の間、おしげは本所の折箱屋とあまり往き来をしなかった。その代り、時々姪の娘を訪れていた。芸者だからお邸に出入りさしては悪いといって、一度も向うから来さしたことはなかったが、月に一二度くらいはどちらからともなく電話で話し、三月に一度くらいはこちらからたずねていき、小遣や平素着を貰ってくるのだった。ほんとうに孝行なやさしい娘だといって、女中にはしじゅう噂をしていた。その娘に頼りきってる風だった。実の親子と同様な気持でいたらしく、いまにあの娘《こ》と家を持つのだと、それが理想でもあり目的でもあるらしかった。そのためでもあろう、彼女はふだん極端に倹約で、給金の大部分を郵便貯金にしていた。娘から二十円三十円とまとまった小使をもらってくると、「奥さま」に必ずそれを見せて、貯金がふえるのを子供のように喜んでいた。彼女の唯一の贅沢は――入費は――肌着の類と紙とだった。うわべは粗末な着物をきていても、肌にはいつも真白な布をつけ、白い清潔な紙を使うのが、自慢だった。あの娘が――みち子が――そう申しました、と彼女は云い添えるのだった。恐らくみち子から仕込まれたのであろうところの、その白い清潔な肌着と腰巻と紙とが、島村夫妻の苦笑を招くこともあったが、其他の点では、彼女は一銭の金も無駄にしなかった。そして前からのいろんなものを合せ
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