いようにと、何度も注意した。蔦子は子供にでも対するようにうなずいてみせた。
蔦子は家に帰って、鏡台の前に坐ったが、ふいに、何か腹だたしいかのように、かかってきてるお座敷を断らせた。そして鏡の中をぼんやり眺めながら、煙草を吸いながら、考えこんでしまった。
おしげの郵便貯金のこと、彼女の急死のこと、蔦子がその貯金によって救われたこと、それらの話を蔦子から聞かされた時、坪井は心に復雑な[#「復雑な」はママ]衝撃を受けたのだった。それらの話をしながら蔦子は、絶望的とも云えるような朗らかさを示していたが、聞く方の坪井は、次第に憂欝な気分に沈んでいった。
彼はその憂欝の底から、蔦子と知り合った初めのこと、なおそのも一つ前のことを、まざまざと思い浮べるのだった。
彼が勤めていた依田商事会社に、貿易品を取扱う或る大きな株式組織の商会から、金融の相談があった。担保物件は価格明記の倉荷証券で、台湾製のパイナップル缶詰四千箱について、一万二千円の申込だった。その三ダース入の一箱は、当時の担保相場としては五円ほどのもので、一箱三円とはむしろ少額にすぎる要求だった。社長の依田賢造は直ちに承諾した。然るに、それから三ヶ月ほどたって、その三ヶ月が融資期限で、それがきれると、社長は坪井を呼んで、会社のために骨折って貰いたいといいだした。用件というのは、担保流れになっているパイナップル四千箱の倉荷証券で、金融の途を、而も出来るだけ多額の金を、向う一ヶ月間の期限で、見付けてほしいとのことだった。而も第一に相談してみるがよいとて、他のある商事会社の名まであげてくれた。坪井は意外な気がした。他に先輩もあるのに、ただ機械的に事務をとっているだけの無能視されている筈の自分に、そういう大任が、而も内々にということで云いつけられたのである。
「どうだ、やってくれるかね。」
社長はその太い指先で、卓上の万年筆を無関心らしく弄びながら、小さな眼で坪井の顔を眺めていた。やさしくもまた鋭くも見えるその眼の底のものを、坪井は判読しかねて躊躇した。
「では、これからすぐに行って、返事をきいてきてくれないか。」
坪井はいきなり押しつけられて、それに従った。どうにでもなれという気だった。
ところが、先方へいってみると、すぐに主任が自身で逢ってくれた。彼は坪井の説明をきいてから、大体よろしいが、金額の点は一人できめ
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