かねるから、後で御返事しようとのことだった。
ただそれだけのことだった。社長は其後、その用件については彼に一言も云わなかった。恐らく先方と直接に話がまとまったのであろう。それから二ヶ月後の年末賞与に、彼は月給の十ヶ月分の包みを貰って驚いた。
「これは特別のはからいだから、内緒にしておいてくれよ。君には今後いろいろ頼みたいこともある。こんな仕事も、次第に面白くなるよ、辛棒し給え。」
社長のその好意が何によるものか、坪井には腑におちなかった。ところが間もなく、例の倉荷証券のことについての、同僚たちのひそひそ話を耳にした。一箱五円五十銭のわりであの証券は他へ担当流れにされてしまったというのである。そうなると、坪井にも凡その想像がついてきた。一万二千円から二万二千円になって、その間のさやは、一体どこにころげこんだのであろう。恐らく依田氏一人の懐へではあるまい。あの少額のままで流してしまった商会の仕打にも、また彼が名目だけの使者に立った話の筋道にも、疑問は持てないことはなかった。彼はやはり平素の通り、他の同僚たちからは除外された形で、非社交的に黙々として事務をとり続けた。そして何かしら息苦しいものを周囲に感じて、賞与をみな使いはたしてやれという気になった。そうした機会に、蔦子と出逢ったのだった。それからはずるずると惰性の赴くままに賞与などは使いはたし、国許から無理な送金を受け、他に借金を拵え、それでもまだ足りなかったのである……。
「考えちゃいけないわよ。」と蔦子ははれやかに云っていた。
その顔を、坪井はぼんやり眺めた。
「そして君は、おばさんの貯金を、全部引出してしまったの。」
「いいえ。どうせ足りやしないでしょう。それも、自由に……看板借りにでもなれるなら、みんな引出したっていいんだけれど……。少しは残しておかなくちゃ、可哀そうよ。」
「可哀そうって……誰に……。」
「……ただ……坪井さん、そんな気がしない……。」
「うむ……。だが、君は朗かそうじゃないか。」
「ええ朗かよ。これから、うんと働いてやるわ。」
自分の腕からするするとぬけだしていく彼女を、坪井は感じたのだった。そして何かが……単に彼女自身でもなくおばさんでもないだろう……何かが、可哀そうだという気持で、而もそこに朗かに立ってる彼女は、一寸したことで、ひどい莫連に向うか生真面《きまじめ》に向うか、どうせ
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