、おしげによくのみこめないらしかった。くわしく説かれて、いくらか分りかけると、ほっとしたような顔をした。
「それでは、お金がどれくらいあったら、すっかりよくなるんですか。」
「どれくらいって、少しでいいのよ。でもそんなこと、おばさんが心配なさらなくってもいいわ。どうにかなるわ。」
 蔦子はそこで初めて笑った。おしげに酒をすすめた。おしげは一杯うまそうに干して、それから、両手を懐につきこんで、長い間かかって、郵便貯金の通帳と印章とを取出した。
「これを、すっかりあげるから、役にたてて下さいよ。わたしがもってるものは、何もかもそれだけだから、役にたつように使うんですよ。」
 蔦子はあっけにとられた。おばさんにお金の相談をしたのではないと、いくら云っても、おしげはきかなかった。通帳を開いてみると、千円をこした金額なのに、蔦子は更に驚いた。おしげはむりにおしつけた。それではしばらく拝借しとくわといって、蔦子は通帳と印章を帯の間にさしこんだ。その無雑作な手附を、おしげはじっと眺めていたが、またたきもしないその眼から、涙がはらはらと、だしぬけに流れおちた。
「あら、どうしたの、おばさん。」
 おしげはなお泣いた。蔦子はすり寄ってその肩に手をかけ、おしげの堅い指先を膝に感ずると、そこから痛みに似たものが胸に伝わってきて、涙ぐんでしまった。
「ねえ、おばさん、あたしこれから一生懸命に働いて、きっと御恩報じをするわ。どうにかなったら、家を一軒持ちたいと思ってるの。そしたら、おばさん来て下さるわね。」
 おしげは一語一語うなずいていた。それから泣きやんで、何か美しい幻をでも見るような眼付で、蔦子の顔を見守った。蔦子はしぜんに微笑んでみせた。珍らしくその頬に生々《いきいき》とした血が流れた。おしげはがっくりと卓子によりかかっていたが、小首をかしげてから、杯をとりあげた。
「おばさんと、こうして飲むのは、ほんとに久しぶりよ。」
 おしげはだまってうなずいてみせた。蔦子はいろんなとりとめもない話をしながら、杯をかさねた。おしげは殆んど口を利かないで、うなずいてるきりだったが、嬉しそうだった。蔦子の家から電話がかかってきた。蔦子は料理の折詰とお酒の瓶とを包んで、おしげにむりに持たしてやった。御主人にわけを話して、うちでゆっくりおあがりなさいと云った。おしげは帯のところをつっついて、通帳を落さな
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