の本名なのである。
「もうとてもいかんよ。僕は死のうかと思ってる。」と彼は微笑しながら云った。すると彼女は、別段驚きもせず、彼にいらえてやはり微笑している。あと一週間か十日だよ、と彼が云うと、彼女は答えた。
「ではあたしも、それまでに用意しておくわ。」
 簡単至極である。その時彼女は電気スタンドの紐をいじくっていたが、ふいに、ぽつりと一粒の涙を眼に浮べて、それをまぎらすように、また微笑してみせた。
 ひどく冷かなものを彼は感じたのだった。普通ならば、どうしていけないのか、どれくらいの借金があるのか、どれくらい財産があるのか、収入はどれほどか、そうしたことをいろいろ尋ねて、果して死なねばならぬほどであるかどうかを確める筈である。そして愛する者を生かしたい、お互に生きたい、生きて愛したい、そう思うのが人情であろう。然るに彼女は、何一つ尋ねなかった。彼の状態について何一つはっきりしたことは知っていなかった。金銭上の事柄については彼は何にも話してはいなかった。そして彼がいきなり、もうだめだから死のうかと思ってると言い出すと、微笑を浮べながら云い出すと、あたしも用意しておこうと云うのだ。それ以上
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