た。私は彼と一緒に何度か彼女に逢ったことがある。この前から見ると、彼女はだいぶ痩せていた。それが、大柄な彼女の肉体をいくらか清澄に見せていた。それでも私はともすると彼女に反感を懐きがちだった。彼が怠惰な日々を送って経済上の難局に当面してる一半の責任は、彼女にありはすまいかと疑ってもみた。その上、酒の酔は人を饒舌に無遠慮になす。彼に余り苦労をかけてはいけないよ、と私は彼女に云った。苦労なんか……さも可笑しいというように、彼女はちらりと彼の方を見た。ばか、彼は生きるとか死ぬとかいってるんだ、と私は彼女に云った。あら、あたしだってそうよ、と彼女は事もなげに云って、彼の方をちらと見た。君と一緒に死ぬともいってるよ、と私は彼女に云った。そんなら嬉しい、と彼女は素直に受けて、彼の方をちらと見た。私はばかばかしくなった。彼女はただ上の空の返事ばかりしていて、私の言葉は彼女の視線に乗って彼へぶつかってゆくのである。その彼はただにやにや薄ら笑いを浮べて嬉しそうに酒を飲んでいる……。
私は腹が立ってきた。こんな奴、殴ってしまうに限る、と思って立上ると、彼もふらりと立ってきて、私たちは取組み合った。尤も、酔狂の上のことで、千代子が笑って見ていたほどふざけたものだったが、それでも私が一押しすると、彼はよろよろとくじけて、千代子の肩にすがり、その花模様の膝にすべり落ちた。島田に結った髪の大きな影が、彼をすっぽり包みこんだ。
彼等をそこに残して、私は立去った。不安が湧いてきた。彼の弱々しさと窶れ方とが頭に残っていた。凡てを投げ出しているような千代子の態度も気になった。彼女の冷淡な言葉と彼は云っていたが、恐らく彼はそれによって、文字の意味とはちがったものを表現していたのだろう。危い、と私は思った。然し彼のような男が自殺する……。この考えは私には、何だか滑稽にさえ思われた。いつ死んでもいいということは、いつまで生きていてもいいということに外ならない。それは自然に任せるということだ。自然に任せるということは、意志的な自殺などとは凡そ対照的だ。
忘れよう。私は忙しかった。
然しともすると、彼の姿が頭に浮んでくるのだった。それが仕事の邪魔となった。私は眉をしかめて、彼に詰問した。
――お前は、あんな女のどこがいいんだ。単純な無智なああいう種類の女は、生に対して盲目であると共に、死に対しても盲目だ。流れにのった浮草だ。その浮草にすがって一緒に押し流されることについて、お前は一体何を発見したのだ。つまらない感傷を捨てろ。
――君が説いているのはすべて理屈だ。僕はただ事実だけを知っている。僕と彼女とは愛し合っているのだ。愛は理知的なものではなく、肉体的な秘密だ。例えば、抱き合って唇を合わして見給え。そのままで三十分も一時間も、じっともちこたえられて、なお名残りが惜しまれたら、本当にお互が愛し合える。嫌気がさすようだったら、愛し合えない証拠だ。性慾的行為などは問題ではない。肉体の体質、そこに愛の秘密がある。この秘密を掴んでる者にとっては、生か死かは問題ではない。それを僕は発見したのだ。物理的で而も運命的な愛が世にはある。
――それにしても、お前自身はどうだ。仕事をしたい、生きたい、そのための経済的整理ではないか。生か死かは問題でない愛があるなら、それを自然に生き延させるためにでも、なぜ働かないんだ。お前のような日々を送っていては、経済上の行詰りに当面するのは初めから分っていたことだ。行詰ってから慌てても間に合わない。他人の助力によろうとするのは、卑怯な態度だ。
――またも君は理屈をしか説かない。僕はもう理屈には倦き倦きした。人間の生産力……精神的生産力には、潮に似た干満がある。その干満と外部的な不幸とが重った時に、多くの芸術家は餓死し或は自殺した。僕がもし干潮の状態のままであったら、経済上の整理などは図らなかったろう。満潮にさしかかったとの自信があったればこそ、仕事をするために、不愉快な奔走もしたのだ。僕が可なりでたらめな日々を送ったというのも、早く満潮を来させるためであった。ただ、時機が少しくいちがったのだ。このくいちがいがどうにも出来ないような世の中なら、むりに齷齪することはない。僕に本当に働かしてくれないような世の中なら、こちらから御免を蒙るだけだ。
――よろしい、分った。だが、お前は本当に死ぬ意志をもってるかどうか、それだけの決意がお前に出来るかどうか、はっきり云ってみろ。
そこで、返事はなく、私は一人取残された。彼の姿は消えてしまっていた。私は余り残酷な言葉を発したのだろうか。こういう風に使われた意志とか決意とかいう言葉が、私自身につき戻されると、私は或る憤りを感じて不機嫌になったのである。死ぬための……おう、私は彼にあやまりたい気さえした。
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