逢う度毎に、彼が次第に元気をなくしてゆくのが見えた。沈痛な陰翳が彼にかぶさって、次第に濃くなってゆくようだった。私は心配になって、彼の経済状態をいろいろ調べてみた。そして驚いた。思ったよりひどかった。あちらこちらに不義理が重っていたし、卑屈だと思えるような負債もあったし、殊に私の注意を惹いたのは、他人の借金を引受けて負担していたもののあることと、次第に専門の金貸からの負債へ他の負債を移してゆきつつある傾向だった。尤も、彼の身分地位上、全部の負債を合してもそう多額に上るものではなかったが、然しまたそれだけ、専門の高利の負債へ移し替えようとする傾向は、先の見通しをつけない無謀なものに思われた。或る捨鉢なものがそこに見られるようだった。古くからの状態を調べて見ると、一寸借金をした第一歩がいけなかったらしく、信用制度の経済組織の穽にずるずると深くはまりこんでいったものらしい。せめて現金制度を堅守していたら、精神的生産力の干潮に際して、彼は果して餓死したであろうか。
 先の見通しのない無謀なやり方について、彼の考えをなおはっきり確めるために、私は千代子の方をそれとなく探ってみた。彼女もひどく困ってるようで、呉服屋への支払いなども滞りがちだし、質屋の門もくぐっているらしかった。ただ私によく腑におちなかったのは、近頃彼女がひどく身体を大事にしてることで、酒をつつしみ、食物に気をつけ、指先のささくれにも手当をしていた。この点では彼も同様で、不如意のためからばかりでなく、好きな酒を節し、煙草も節しようと努力していた。これは見方によっていろいろに考えられることだった。
 然し私は彼のことにばかりかかわってはいられなかった。彼のために仕事の邪魔をされることさえ困るのだ。心配にはなるが、もう暫く様子を見てるより外はなかった。
 仕事について考えながら、池のふちを歩いていると、おい、と私の肩を叩いた者がある。池にはまだ蓮も藻も芽を出さず、平らにしっとり淀んでる水面に、森影と街の灯とが半々に映って、ちぐはぐな瞑想を誘うのだったが、それから眼をあげて、振向いてみると、彼が立っていた。
「君でもこんな所を散歩することがあるのか。」
 不思議そうに私の顔を見て微笑した。が私にも、彼のその晴れやかな顔が不思議に思えた。この前よりひどく瘠せていたが、陰翳がとれたようで、眼の光が澄んでいた。どうしたのだと聞くと、十日間ばかり徹夜の形で或る仕事をすましたと云う。
「仕事の義務だけは果したいのだ。」
 それが、彼の所謂本当の仕事かどうか聞きたかったが、彼の晴れやかな表情だけで満足して、私は黙っていた。すると面白い発見をしたといって、彼は嬉しそうに微笑している。私はまたかと思ったが、全く別なことだった。
 徹夜をして、夜がほんのりと明けてくる時、雀の声をきくのが実に嬉しかった、と彼は話す。彼の書斎の窓際に大きな椎の木があって、それに沢山雀がきた。夜明けに一番早く眼をさますのは雀らしい。そして、眼をさますとすぐに楽しく囀り交わす。彼はその雀たちのために、窓の外の庇に米粒をまいてやった。いつのまにか食べてしまう。然し人が覗いているうちには決して近寄らない。いくら馴らそうとしても馴れない。ところが仕事をすました朝、彼が放心のていでつっ立って、ぼんやり夜明の空を眺めていると、雀がすぐ側まで来て米粒をひろっているのだった。気がついて眼をやると、雀がぱっと逃げてしまった。
「偶然の一致だろう。」と私は云った。
「偶然じゃない。自然界はそうしたものだ。」
 彼はそれを信じきっているらしかった。そしてその発見がとても嬉しいという。そんなことを話しながら、彼は私を誘った、支那料理のさっぱりしたものだけで老酒を飲むのだと。金が少しはいったから心配はないという。そして連れだって歩いているうちに、ばったりと、まるで足の骨が折れでもしたように、彼は躓いて倒れた。手をかしてやると、すぐに起き上ったが、眼に一杯涙ぐんでいた。私は眼を外らした。芝居や映画などで、いつも私のことを泣き虫だと笑っていた彼だ。嘗て涙を見せたことのない彼だ。気がついてみると、彼の歩き方はふらふらして力がなかった。よほど無理をして仕事をしたに違いなかった。
 普通の日本座敷で紫檀の卓で、二三の料理に老酒を飲んでるうち、彼は淋しい顔をして、呼んでもいいかときいた。千代子のことだ。私は分ってはいたが黙っていたのだった。
 彼女は黒襟のかかった平素着でやってきた。やはり朗かそうだった。一体私は、ひどく頼りない感銘を彼女から受けるのだ。何だか磨きの足りない、伝法肌の気まぐれな朗かさが、そうした感銘を与えるのかも知れないが、私はそれを飛行機だと冗談に云っていた。いつも飛行機に乗っているような彼女と、元来はのんびりした物にこだわりのない彼
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング