れが出来なかった。千か二千は出来たろうが、それは半端で間に合わなかった。彼は首を傾《かし》げた。思った金額が出来ないのが不思議だった。彼にとっては、金の問題は凡て小学校の算術だった。これだけ借りて、こうして、これだけずつ払っていく。計算が明瞭についた。ただ、前提となるべき借金だけが出来なかった。それが彼にとっては不思議極まることだった。そんな筈ではなかったのである。水は高い所から低い所へ流れていく。今はこちらが水量が足りないから、よそから流しこんでおいて、やがて仕事によって水量がましたら、また他の方へ流してやるつもりだった。それが齟齬を来したのである。要するに、金を借りる時期と、支払う時期――即ち仕事をする時期とが、距りすぎていたのである。後者の時期の方が前者の時期に先立たなかったことも、彼にとっては不思議に思われた。
彼は少し疲れた。面倒くさくなった。こんな世の中ならもう死んでもいいと思った。元来、彼は生への強い執着を持たなかった。為すべきことが多くあるから是非とも生きていたい、そういう不遜な考えは少しもなかった。生きてる間何かをしておれば、いつ死んでもよいのだった。そういう気持なのに、現在、彼は少しも仕事をしていなかった。だから余計、いつ死んでもいいということになった。
但し少しも仕事をしないというのは、彼の主観的な表現である。彼は少しは働いていた。然しそれは本当の仕事ではないというのである。借金がふえると同時に、びっくりして、種々のつまらない仕事をやめて本当の仕事に専心しようと考え、そのために負債整理を企てたのである。茲に断るまでもなく、彼は文学者だった。文学者というものは、本当の仕事とかつまらぬ仕事とか区別をつけたがる。然しその区別は、ただ主観的なもので、恐らく神にだって分るまい。だから、本当の仕事がしたいというのは、実のところ、真剣に働きたいということに過ぎないかも知れない。
負債に煩わされて真剣に働くことが出来ないとすれば、そしてそのごたごたした負債を整理することも出来ない世の中だとすれば、死んだ方がいいだろう、という風に、いつ死んでもいいという彼の気持は、死のうかなあという動きに変った。
「そこで千代子にそう云うと……。」と彼は私に話し続けるのだ。
千代子というのが彼の愛人なのである。愛人という言葉は少し変だが、実を云えば、彼と惚れ合ってる芸者の本名なのである。
「もうとてもいかんよ。僕は死のうかと思ってる。」と彼は微笑しながら云った。すると彼女は、別段驚きもせず、彼にいらえてやはり微笑している。あと一週間か十日だよ、と彼が云うと、彼女は答えた。
「ではあたしも、それまでに用意しておくわ。」
簡単至極である。その時彼女は電気スタンドの紐をいじくっていたが、ふいに、ぽつりと一粒の涙を眼に浮べて、それをまぎらすように、また微笑してみせた。
ひどく冷かなものを彼は感じたのだった。普通ならば、どうしていけないのか、どれくらいの借金があるのか、どれくらい財産があるのか、収入はどれほどか、そうしたことをいろいろ尋ねて、果して死なねばならぬほどであるかどうかを確める筈である。そして愛する者を生かしたい、お互に生きたい、生きて愛したい、そう思うのが人情であろう。然るに彼女は、何一つ尋ねなかった。彼の状態について何一つはっきりしたことは知っていなかった。金銭上の事柄については彼は何にも話してはいなかった。そして彼がいきなり、もうだめだから死のうかと思ってると言い出すと、微笑を浮べながら云い出すと、あたしも用意しておこうと云うのだ。それ以上の冷淡さがあろうか。彼が冷りとして眺めると、彼女は涙を浮べながら微笑してみせるのだ。
その冷淡さを彼は考えまわしたのだった。そしてはっきりした解釈がつかないうちに、いつのまにか、彼女と一緒に死のうという決心になっていった。これまでぼんやり死のことを考えていた時、彼は一度も彼女と一緒に死ぬなどという気持にはならなかった。死ぬのは自分一人のことだった。ところがふいに、彼女の冷淡な言葉にふれて、彼は彼女と一緒に死のうという気になった。
「それが、発見なのだ。」と彼は私に云った。
これはもうどうも仕様がないことかも知れない、そんな気持に私もなって、彼に連れられて、彼女――千代子に逢いにいったのである。
廊下が際立って美しく拭きこまれ、床の間の活花がばかに新鮮で、掛軸の長押の額が古風な、奥の一室で、私と彼とは酒を飲み初めた。二人とも可なり酔っていたが、まだだいぶ飲めそうだった。杯を見ると彼は嬉しそうににこにこしていた。私はともすると考えこみがちだった。
随分待たしておいてから、千代子は息を切らしてやってきた。「おう苦しい。」それが彼への挨拶で、とたんに坐りなおして、しばらくと私に挨拶をし
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