みてよかった。
 だが、そのことと、あの朝鮮戦乱の悲惨な情景とを、どう結びつけて考えたらよいだろうか。いや、どう整理したらよいだろうか。数年前の軍隊生活の苦い経験を思い起しただけでも、十内は途方にくれた。
 紙幣束のはいってる鞄を抱えながら、重い曇り空の下を、十内は思い沈んで歩いた。霧雨というよりはもっとはっきりした細雨が、はらはらと降ってきた。だが、空気は淀んで、掘割の汚水には漣の小皺も立たず、岸の柳の並木の葉にも小揺ぎがなかった。
 その、柳と掘割との間の空間に、また、あの青服の少女の顔が浮んだ。切り下げた前髪、広い額と清い鼻筋、それだけの仄白い顔が、ぼんやりと宙に浮いて見えた。太陽の面に幾重も幾重も紗のヴェールをかけたかのように、その顔がほんのりと白く静止して、そして、それ自体なにかくるくる廻転していた。
 それが、今は、十内には親しく思えた。
 あのあたりには、平地に小さなクリークが多くて、赤濁りの水中に、藻の花が咲いていたり、睡蓮科の大きな葉っぱが揺れていたりした。岸には楊柳が多かった。
 東京の都心近くの掘割の水は、もっと汚く黒濁りがして、水草などはなかった。その代り、岸の
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