ぎもせず、はいってきた十内の方にひたと顔を向けたままだった。
高い小窓からさす薄ら明りの中だったが、彼女の顔は蒼ざめて、まるで血の気を失ってるようだった。十五六才ごろであろうか、髪を編んで後ろに垂らし、前髪だけ取り分けて短く切り揃えている。額が高く広く、鼻筋がすっと清らに通っている。口は少し開きかげんで、物言いたげに見えるが、切れの長い眼は全く無心に見開かれてるだけで、何の表情も帯びていず、強いて言えば白痴のそれである。
その顔に、十内はいきなり当面して、言い知れぬ衝動を受けた。人形なのか、人間なのか、人間ならば、生きてるのか、死んでるのか、そういう思いが真先に来たが、次に、なにかぞっと不気味な感じがした。没表情な白痴のような眼が、それなりに澄みきって、黒い瞳の奥底から、恐怖と絶望の毒気みたいなものを放射している。然しそれは十内の独り合点だったかも知れない。
少女はかすかに膝頭を動かし、握り合せてる両手で脇を押えた。その時十内に気付いた。彼女は青服を上半身にまとまってるだけで、折り曲げてる両脚の方は裸だった。誰かに肉体を犯されたのではないか、この少女が。十内は思わず眼を見張った。浅間しさに、その眼を外らしたが、持ってゆきどころがなく、またも彼女の眼とぴたり合った。恐怖と絶望の毒気を吐きつける呆けた眼だ。
なにか強い力で結び合されたかのように、眼と眼をひたと見合せてるうちに、十内は飛び上った。そして次の瞬間の行動は、十内自身でもはっきり説明がつかないものだった。
後になって十内は、或る友人のさりげない話を聞いて、内心ひやりとしたことがある。
その友人の家に、鼠がよくいてわるさをした。罠や薬剤を用いるのも億劫だし、大人気ないので、ただ追っ払うだけにしておいた。鼠の方ではだんだん図々しくなって、人のいる室にまで進出してきた。
或る晩、彼が夜更しで仕事をしていると、細君がそっとやって来て、茶の間に鼠がはいってるようだと告げた。不届き千万な奴、痛みつけてやれと、足音をぬすんで忍び寄り、襖を閉め切って、鼠をそこに閉じ込めることが出来た。それから電燈をつけ、棒を手にして、鼠を追い廻した。茶箪笥の棚、鴨居の上、長火鉢の陰など、鼠は素速く逃げ廻ったが、しまいにやっと姿を消した。あちこち見調べたら、地袋の棚の上に竹筒の花瓶があるので、その中を懐中電燈で照らしてみると、果していた。鼠は竹筒の中に蹲まって、じっとこちらを見上げていた。懐中電燈の光りで、その顔がまざまざと見えた。もう逃げようともしないで、ただこちらを見ている。丸い眼を一杯見開いてまばたきもせず、こちらを見ている。つまり、懐中電燈の光り中で、鼠とぴったり眼を見合った恰好なのだ。
そうなると、もういけなかった。彼は頭を振り、室の襖を開け放し、棒で竹筒を突き倒し、鼠を逃がしてやった。
じっと眼を見合せたのは、それと同じだが、十内のあの場合は、事の次第が全く違っていた。その上、十内は兵士であり武装していた、彼は飛び上って、銃剣で相手を刺殺した。青服の少女は声も立てなかった。
或るいは、彼女はほんとうに白痴だったのかも知れない。部落中の者が逃げ去った後まで、一人でそこに残っていたからである。或るいは、彼女は特別な意志と意図のもとに、そこに潜んでいたところを、酒に酔った兵のために身を汚され、恐怖と絶望の底に陥っていたのかも知れない。十内の本能的な反応はそれを語るようである。
では、十内はなぜ彼女を刺殺したのか。惨酷な罪悪と、その痕跡とに対して、憤激したからであったろう。実際そこに、罪悪が現存し、その痕跡が現存していた。彼女の眼はそれを訴えていた。
然し、その二つを抹殺することによって、十内は別な罪を犯してしまった。彼女の眼を思い起す毎に、十内は身震いするほどの憎悪を覚えた。やがて時がたつにつれて、憎悪の感は薄らぎ、彼女の眼も遠くぼやけていった。
そして今になって、別な顔が見えてきたのである。
別な顔、ではあるが、それがあの青服の少女の顔だと、どうして直ちに分ったのであろうか。自分の方に大きな罪悪があった、そのことが、意識されてきたからであろうか。
局面が違ってきたのである。
十内は先日、朝鮮戦乱のニュース映画を見た。
鉄道線路に沿って、避難民が列をなして歩いていた。皆ぼろぼろの服をつけ、足はたいてい跣で、小さな荷物を提げ、とぼとぼと歩いていた。恐らく、行く先も定かでないであろう。その夜の食事も当がないであろう。
老人があり、子供があり、若い男女も老人か子供のように頼りない姿である。赤児を背負った婆さんもある。そしてそれらの人々が、奇妙に、全く見知らぬ赤の他人の間柄に見える。互に言葉をかけ合うこともなさそうである。ただ黙ってとぼとぼと歩いている。身内の者、親子、兄
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