広場のベンチ
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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 公園と言うには余りに狭く、街路に面した一種の広場で、そこの、篠懸の木の根本に、ベンチが一つ置かれていた。重い曇り空から、細雨が粗らに落ちていて、木斛の葉も柳の葉も、夾竹桃の茂みも、しっとり濡れていたが、篠懸の葉下のベンチはまだ乾いていた。
 そのベンチに、野呂十内が独り腰掛けていた。手提鞄を膝に置いて両手で抱え、帽子の縁を深く垂らし、眼を地面に落して、我を忘れたように考え込んでるのである。
 雨を避けてその木陰に逃げこんだのでは、勿論なかった。街路を通る人々のうちにも、傘をさしてる者は極めて少なかった。濃霧とも見做せるほどの細雨である。ただ、空の曇りかたが如何にも重苦しかった。
 十内は溜息をついた。
 先刻、街路の人通りからはぐれるように、広場へふみこんで、ベンチに腰を下す時、殆んど無意識にあたりを見廻した、その動作の感覚が、まだ残っていた。
 あの顔、青服の少女の顔が、また見えてくるかも知れなかった。
 十内が寄寓してる家から、電車通りへ出る道筋の一つに、神社の境内を通過してゆくのがあった。少し遠廻りではあるが、静かだった。裏手からはいって、立ち並んでる大木と社殿との間を通ると、神社の正面に出る。石の鳥居がある。そこから一段低くなってる広地は、縁日などにいろんな催し物が行われる場所だが、ふだんは、木影深くひっそりとしている。その外れに、また石の鳥居があって、そこから急な石段となる。二十段ばかり降りると、ちょっと平地となり、下にまた二十段ばかり続く。
 上部の石段を降りて、平地で息をつき、それから下部の石段を降りかかった時、十内は息をのんだ。下方の空間に、ぽっかりと、あの少女の顔が浮き出していたのである。
 もっとも、それが最初ではなかったようだ。夢ともうつつともなく、前にも一度見たことがある。夜明け頃、まだ眠ったまま、なにか考えごとをしている気持ちだったが、心の眼には、仄白い丸いものが映っていた。それが静止してるとも廻転してるともつかず、ただ明暗の差だけがちらちらしているうちに、額から、眼、鼻、口と、次第に形をととのえて、少女の顔となった。はっと、眼をさますと、室内にまで漂い込んでる薄明るみに、蚊帳が白々と垂れていた。
 石段の下方の空間に現われたのは、もっとはっきりした顔だった。
 長い髪の毛は垂らしているらしく、前髪だけをお河童風に短く切り揃えて、白い額の上部に影を置いている。高い広い額だ。鼻筋がすっきりと清い。眼と口は判然としない。顔全体が静止しながらゆるく廻転してる故であろうか。それとも幻覚の故であろうか。だが、その顔だけで、首から上のぼやけた顔だけで、あ、あの少女だ、と十内には分った。
 忘れていたわけではない。
 強いて記憶の外に放り出していたのである。戦闘、敗戦、俘虜、内地帰還、離散した家族、物資の闇取引など、生活環境の激変は、過去の一切を忘却の淵に埋没させるに好都合だった。然し、その忘却の深淵の中にも、ちょっと気を向ければ、厳然たる事実の岩頭がいくつも見出せるのだった。青服の少女もその一つである。
 揚子江から可なり離れた処に、十内の属する部隊はいた。広漠たる大陸の土地の、所謂点だけの占拠だから、局部的なゲリラ戦は絶え間がなかった。
 遠くに見える兵陵地帯の裾に、小さな部落があって、そこが敵性スパイの本拠と目されていた。僅かな油断の隙間に、こちらが手痛い損害を蒙った、その腹癒せもあって、夜間ひそかに、小部隊で掃蕩に出かけた、ところが、行ってみると、その部落には人影一つなかった。その代り、十数戸の僻村にして意外にも、物資が豊富にあった。甕の中、桶の中、床下など、穀類や脂肪類や酒類が隠匿されていた。秘密運搬のルートに当っていたのであろうか。それとも、他に何か目的を持っていたのであろうか。
 困苦欠乏は前線の兵隊につきものである。この小部隊の兵たちは、突進すべき敵を見失い、警戒すべき情況も認め得ないで、飲食物の方へ飛びついていった。久しぶりの珍味だった、けれどもさすがに、公然たる饗宴とはいかなかった。薄暗い灯影のもとで、言葉少なに腹を満したのである。
 夜が明けてから、改めて屋内の探索がなされた。野呂十内もこの小部隊にはいっていて、あちこちを検分した。そして或る家の奥室に踏み込むと、愕然と立ち辣んだ。
 小さな室で、戸棚と小卓に並んで、狭く長い寝台が壁際に設けられていて、その上に、一人の少女が坐っていた。少女は青色の服をまとって、身動きもせず、まじろ
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