は顔を出さなかった。
その当時のことだ。私は高木と連れ立って、ムラサキに飲みに行った。だいぶ飲んで酔っているところへ、三千子が出て来た。他にも客があったが、三千子は真直に高木の方へやって来た。うわべばかり体裁のいい安物の洋装ではなく、きりっとした和服姿で、蝋のように蒼白な顔色だった。
「あなた。」
彼女は眼を据えて言った。
「やっぱり、駄目ですの。菊ちゃんのことを頼みます。」
不思議なことに、高木はお時儀をするように頷いたのである。その肩のあたりへ三千子は倒れかかるように寄りそって、彼に公然とキスした。そして、周囲へは一瞥もくれずに、奥へ引きこんでしまった。高木は顔を伏せて、卓上の両掌に額を支え、眼をつぶって考え込んでいた。
私は唖然とした。それからばかばかしくなった。高木と三千子は、面と向って逢わないまでも、互に交渉しあっていたのではないか。私一人、仲に立ってるつもりで、やきもきすることはなかったのだ。私はその夜、やけに酒を飲んでやった。
数日後に知ったのだが、その翌日、三千子はムラサキから姿を消した。関西の方へ行ったというだけで、はっきりした行く先は、高木も菊ちゃんも知らない、というのが真実らしかった。
高木の後援で、菊ちゃん――山本菊子が、ムラサキの店を経営することになった。これは若いけれど、近代的な朗かな性質で、好人物の高木にはいい相手だ。そして店の名もサロン・キクと改めて、洋酒を主とする方針に変った。
「どうも、ムラサキなんて名前はいかんね。やはりサロン何とかがいい。」
高木はそう言って、にこにこ笑いながら、ウイスキーのグラスをなめた。おひと好しの彼がそんなことを言うのを、私は感慨深く聞いた。現代的なおひと好しとでも言おうか、菊ちゃんと彼との間は、どう見ても怪しい関係はなく、将来とも清らかにゆくだろう。現代的なおひと好しに打ち負けてしまったムラサキのマダムの面影が、私の眼には悲しく見えてくる。
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「読売評論」
1950(昭和25)年3月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年12月30日作成
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