に三十三という歳は魅惑がある。それが、崎田さんと酒場なんかやることになって、うかうかと三十三を通りこしてしまった。今になってみると、ずいぶん昔のような気もする。それほどわたしの心情も変ってしまった。夫のことだって、遠い思い出にすぎなくなった。
鏡を見つめてみると、額の皺の数が多くなり、眼尻や口許に小皺が目立ってきた。笑ってみると、それらが殊にはっきりしてくる。髪の生え際の額の皮膚が、へんにてらてらしてきたようだ。そういうことがわたしは悲しい。いつまでも若々しくしていたいのではない。忍び寄ってくる老いの影が、過去からわたしを遠ざけるのだ。それは構わないとして、現在のわたしに何があるだろうか。酒場のマダムという稼業だけで、何にもない。何にもない。わたしは念入りにお化粧をするようになった。商売柄、あまり派手に目立ってもいけないので、ほんのりと匂う程度に、ずいぶんと苦心をする。
こんなことをして何になるのかと、時には反省してみる気分にもなる。頼りないのだ。世の中が、自分自身が、頼りないのだ。この人ならと、頼りにしていた高木さんまでが、よく識るにつれて、だんだん頼りなくなってきた。
初めはわたしの方から捨て身になって、寄りかかっていったのだけれど、もうもう、別れてしまおうと、幾度思ったか知れない。けれど、あの人は、私の方から寄りかかってゆけば、何のこだわりもなく抱き取ってくれた、それと丁度同じように、私の方から立ち去ろうとすれば、何の未練もなく、振向いて見ることさえしないだろう。それがわたしには不満なのだ。もうわたしに倦きはてた、というのではない。あの人にとってわたしは、路傍の石にも等しいのだろうか、飼い猫にも等しいのだろうか。もしあの人が、惜別の涙の一滴でも流してくれるなら、わたしはほんとに別れてみせる。わたしにも意地というものがある。即くも離れるも一向平気だとなれば、わたしは別れたくない。男女の関係なんて、そんな無意味なものだろうか。
たいていの男のひとは、女に対して、好きか嫌いかがはっきりしてる筈だ。倦きたら倦きたでいい。現在、好きか嫌いか、どちらかだ。女にしても、男に対してそうだ。ところが高木さんときては、わたしに対して、好き嫌いの区別が全くないらしい。それに気が付いた時、わたしは心の中で泣いた。泣くよりも辛い気持ちになった。
酒場なんかやっているといろいろな目に出逢う。遠廻しに言寄ってくるひともあれば、露骨にもちかけてくるひともある。NさんやKさんは実にしつっこい。そんな人たちの話をもち出してみても、高木さんは静かに頬笑むだけで、何の反応もない。古代文字とかをいじくり廻したり、鳥の飛ぶのを眺めたり、雲の行方を見守ったりするだけで、わたしが側にいても全く無視して、何の話もしてくれない。閨の中でだって、一度も積極的に出てくれたことはない。その無反応さが、私には癪にさわるのだ。
少し困らせてやれと思って、壁を塗り代えるのを口実に、しばらく続けて、あの人の家へ泊りに行ったが、やはり何の反応もなかった。わざとふてくされた真似をして、朝寝坊はするし、我儘一杯に振舞ったが、何とも言わないのだ。せめて、布団ぐらい自分でたたんだらどうだとか、室の掃除ぐらい女中に手伝ったらどうだとか、一言でも言って貰ったら、わたしはどんなに感謝したか分らない。飼い猫同様に待遇されるのは、たまらないことだ。わざと、電話もかけないで、一晩すっぽかしてやったが、翌朝行ってみると、あの人はけろりとしていた。わたしのことなんか、少しも気にかけていない。悪態をついても、一向に通じない。もう泊りに来ないと言っても、眉根一つ動かさない。金がいると言えば、すぐに承知して、自分で持って来てくれる……。
ああ、わたしはどうすればよいのか。こちらの言うことは何でもしてくれるけれど、それが頼りになるということなら、いっそ、そんな頼りにはなれない方がいい。怒ったり引っ叩いたりしてくれたら、その方がどんなに頼りになることか。
あの人は時々酒を飲みに来る。一人の時もあれば、友人連れの時もある。わたしが冷淡にしようと、馴れ馴れしくしようと、そんなことは全く気に止めていないらしい。いつもにこにこしていて、心に聊かの屈託もないらしい。頭髪の手入れから服装まで、独身者らしい投げやりなところは見えるが、それでも清潔で、肉附のよい頬の血色が美しい。そしていつも微笑してるような眼眸である。その様子を見ていると、どうしたことか、わたしは苛ら立ってくるのだ。仕返しをしてやりたい。わたしへの無関心というか無反応というか、それの仕返しをしてやりたい。
わたしはあの人を憎み始めたのかも知れない。罠におとすことを考えたのである。それとも、最後にも一度あの人をためしたかったのであろうか。
あの人は菊ちゃんに帯地を一巻くれた。わたしに内緒のつもりではあるまいが、わたしのいないところでくれたのである。御所車の美しい刺繍のある立派なものだ。それを見てわたしは、あの人がわたしには嘗て何一つ買ってくれたことのないのを、思い浮べた。もしあの人が菊ちゃんに多少の好意を持ってるとしたら、何より好都合だ。
菊ちゃんはまだ二十にもならない小娘だが、酒場に働いてるだけに、相当物分りはよい筈だ。わたしは菊ちゃんに策略をさずけた。
来月の一日から一週間ばかり、わたしは田舎に行く用事が出来て、店は休業とする。菊ちゃんも隙になるし、まだ熱海に行ったことがないから、二日から一二泊の予定で、高木さんに連れて行って貰う。――そういうことを、わたしに内緒で、高木さんに頼んでみるのである。是非とも、後生一生の願いだと、頼んでみるのだ。
菊ちゃんは笑って、なかなか承知しなかったが、わたしは無理に押しつけた。それから数日後、菊ちゃんの報告では、高木さんはわけなく承諾したとのことだ。さすがに、わたしはかっとなった。今に見ておれ、という気になった。
月末近く、或る日、わたしはさり気なく高木さんに言ってみた。
「月を越したら、二三日、どこかへ連れていって下さらない。熱海でもいいわ。」
高木さんは眼を丸くした。
「それは、話がへんだね。君は一週間ばかり田舎へ行くし、店は休みにするとか、菊ちゃんが言っていたよ。それで、僕は菊ちゃんを熱海に連れていってやると、約束したんだが……。そんなら、三人で熱海に行こうじゃないか。」
なんのことはない。高木さんはにこにこ笑っているのだった。
「菊ちゃんと二人でいらっしゃいよ。」
「菊ちゃんと二人じゃ、どうせ面白いことはない。三人で行こうよ。」
手応えがなくて、わたしは拍子ぬけがしたが、それから急に腹が立ってきた。
「あなたの気持ち、よく分りました。わたし、今晩こそ酔っ払うわ。」
もっともっと、悪態をついてやりたかったが、言葉が出て来なかった。酒を飲んでるうちに、悲しいのか口惜しいのか分らなくなってきた。
「ねえ、今晩どこかへ連れていって。そしてうんと飲まして。」
つい寄りかかってゆくような気持ちになるのを、踏みこたえて、唇を噛みしめた。
けれど、やはり持ちこたえられなかった。自動車をひろって、高木さんの知り合いの特殊旅館へ行き酒を飲んでるうちに、わたしは泣き崩れてしまったのである。
「わたし、あなたを愛してなんかいません。ただ憎いだけ、ただ憎いだけ。」
そんなことを、頭を振りながら言っていると、なお涙が出て来た。
「わたしなんか、あなたにとっては、どうせ、飼い猫みたいなものでしょうよ。わたしがどうなろうと、あなたは平気でしょう。だけど、わたしだって、魂はあります。あんまり見くびりなさると、ただじゃ置かないから……。」
高木さんが菊ちゃんのことを言い出したのでわたしはなお口惜しくなった。菊ちゃんのことなんかじゃないのだ。菊ちゃんの話なんか、わたしの差金によるのだし、また、帯一筋ぐらいなんとも思ってやしない。わたし自身、いつもいつも高木さんから無視されてるのが、癪にさわるのだ。
それでもやはり、高木さんは眼で笑いながら、平然として、わたしにお酌をし、自分は手酌で飲んでいた。わたしのことより、酒の方が大事なのだろうか。高木さんは酔った。わたしも酔った。泣いたり怒ったりしながら、わたしは赤ん坊のように、高木さんの腕の中で眠ったらしい。
なにか音がするので、夜中に眼を覚した。何の音とも分らないが、コトコト叩いてるのである。それが、わたしの頭の中を叩いてるようでもあり、胸の中を叩いてるようでもある。水の雫のような冷たい音だ。
高木さんは仰向けに、すやすや眠っていた。不思議なほど安らかな眠りだ。よくもそう眠れるものだ。覚えていらっしゃい。仕返しをしてやるから……殺してやるから……。そしてわたしは涙を流した。もうわたしは少し生きすぎたような気がする。
ハンドバッグの中に、用意の薬剤があった。わたしはそっと起き上り、薬剤を取り出して、枕もとのコップの水にそそいだ。高木さんはまだ眠っていた。覚えていらっしゃい、殺してやるから……。私はコップを取りあげた。死のキッス、口移しに飲ましてあげるわ……。わたしはコップに口をつけ、一息に飲み干して、高木さんの胸の上に倒れ伏した。高木さんは身動きしたが、あとはしいんとなった気持ちで、やがて、苦悶の熱い塊がわたしの胸元に突きあげてきた……。
三、平岡敏行の話
村上三千子の服毒は、発見が早かったため、大事に至らずして済んだ。医者が呼ばれ、彼女は病院に運ばれ、そして僅かな日数で健康体に回復した。
この間に、私が聞いたところでは、感嘆したことが二つある。
一つは、高木恒夫の落着いた態度だ。彼は三千子の異変を察知するや否や、その家の女将や女中に指図し、医者にも適宜な依頼をして、万事を急速に而も穏便に取計らってしまった。その旅館も人気商売だし、三千子とてもムラサキのマダムとしての人気商売だし、町医者だってまあ言わば同類だし、大事件ならばとにかく、つまらない事件では名声を世に売るわけにはゆかず、高木の希望通りになって、警察の方にも内密に終った。あの温厚な高木にそんな臨機な才能があろうとは、私には思いがけなかった。もっとも、その翌日、私は高木から電話で呼び寄せられて、いろいろ相談に応じてやり、進んで前後措置の手助けもしたのである。
次に、これは非常にデリケートな問題だが、三千子は意識を回復してから高木に逢いたがらなかった。というよりも、逢うのを恐れた。そのことを私から高木に伝えると、高木は例の微笑を含んだ眼眸で、事もなげに頷いて、彼女に逢おうとはせず、万事の交渉を私に任せた。前に、高木の告白とか三千子の告白とか名づけたのも、この交渉に当って、私が当人たちから聞いた話を私流にまとめあげたもので、真偽のほどは私の保証の限りではない。
改めて言うまでもなく、私は高木恒夫の旧友であり、ムラサキの常客として村上三千子の相当の信用もあるのだ。
さて、つまらない事柄は省略して、この事件の結末だけを述べることにしよう。
高木は、三千子の回復を知っても、さして喜んだ風はなかった。その代り、彼女が結婚を希望するなら結婚もしようし、単に同棲生活を希望するなら同棲生活もしようし、今迄通りの生活を希望するならそれでもよかろう、とそういう意志を私に伝えた。然し、彼女と別れてしまうということは、一言も言わなかった。
私は彼に抗議した。おひと好しすぎると抗議した。第一の条件は、これまでも二人の間はうまくゆかなかったのだから、別れるのを当然とすべきであったのだ。
「そりゃあ君、別れたって一緒になったって、結局同じことじゃないか。」
高木の返答は、高木としては明快を極めていた。
一方、三千子の方は、高木に逢いたがらず、そのくせ、高木のことを根掘り葉掘り聞きたがり、私も少々持てあました。それから次に、高木のことをふっつり口にしなくなった。いやな兆候だと私は思った。
ムラサキの店の方は、菊ちゃんが、料理番相手にどうかこうか続けていた。三千子は退院後しばらく、あまり店の方に
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