は顔を出さなかった。
その当時のことだ。私は高木と連れ立って、ムラサキに飲みに行った。だいぶ飲んで酔っているところへ、三千子が出て来た。他にも客があったが、三千子は真直に高木の方へやって来た。うわべばかり体裁のいい安物の洋装ではなく、きりっとした和服姿で、蝋のように蒼白な顔色だった。
「あなた。」
彼女は眼を据えて言った。
「やっぱり、駄目ですの。菊ちゃんのことを頼みます。」
不思議なことに、高木はお時儀をするように頷いたのである。その肩のあたりへ三千子は倒れかかるように寄りそって、彼に公然とキスした。そして、周囲へは一瞥もくれずに、奥へ引きこんでしまった。高木は顔を伏せて、卓上の両掌に額を支え、眼をつぶって考え込んでいた。
私は唖然とした。それからばかばかしくなった。高木と三千子は、面と向って逢わないまでも、互に交渉しあっていたのではないか。私一人、仲に立ってるつもりで、やきもきすることはなかったのだ。私はその夜、やけに酒を飲んでやった。
数日後に知ったのだが、その翌日、三千子はムラサキから姿を消した。関西の方へ行ったというだけで、はっきりした行く先は、高木も菊ちゃんも知ら
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