れてしまったのである。
「わたし、あなたを愛してなんかいません。ただ憎いだけ、ただ憎いだけ。」
 そんなことを、頭を振りながら言っていると、なお涙が出て来た。
「わたしなんか、あなたにとっては、どうせ、飼い猫みたいなものでしょうよ。わたしがどうなろうと、あなたは平気でしょう。だけど、わたしだって、魂はあります。あんまり見くびりなさると、ただじゃ置かないから……。」
 高木さんが菊ちゃんのことを言い出したのでわたしはなお口惜しくなった。菊ちゃんのことなんかじゃないのだ。菊ちゃんの話なんか、わたしの差金によるのだし、また、帯一筋ぐらいなんとも思ってやしない。わたし自身、いつもいつも高木さんから無視されてるのが、癪にさわるのだ。
 それでもやはり、高木さんは眼で笑いながら、平然として、わたしにお酌をし、自分は手酌で飲んでいた。わたしのことより、酒の方が大事なのだろうか。高木さんは酔った。わたしも酔った。泣いたり怒ったりしながら、わたしは赤ん坊のように、高木さんの腕の中で眠ったらしい。
 なにか音がするので、夜中に眼を覚した。何の音とも分らないが、コトコト叩いてるのである。それが、わたしの頭の中を叩いてるようでもあり、胸の中を叩いてるようでもある。水の雫のような冷たい音だ。
 高木さんは仰向けに、すやすや眠っていた。不思議なほど安らかな眠りだ。よくもそう眠れるものだ。覚えていらっしゃい。仕返しをしてやるから……殺してやるから……。そしてわたしは涙を流した。もうわたしは少し生きすぎたような気がする。
 ハンドバッグの中に、用意の薬剤があった。わたしはそっと起き上り、薬剤を取り出して、枕もとのコップの水にそそいだ。高木さんはまだ眠っていた。覚えていらっしゃい、殺してやるから……。私はコップを取りあげた。死のキッス、口移しに飲ましてあげるわ……。わたしはコップに口をつけ、一息に飲み干して、高木さんの胸の上に倒れ伏した。高木さんは身動きしたが、あとはしいんとなった気持ちで、やがて、苦悶の熱い塊がわたしの胸元に突きあげてきた……。

     三、平岡敏行の話

 村上三千子の服毒は、発見が早かったため、大事に至らずして済んだ。医者が呼ばれ、彼女は病院に運ばれ、そして僅かな日数で健康体に回復した。
 この間に、私が聞いたところでは、感嘆したことが二つある。
 一つは、高木恒夫の落着いた態度だ。彼は三千子の異変を察知するや否や、その家の女将や女中に指図し、医者にも適宜な依頼をして、万事を急速に而も穏便に取計らってしまった。その旅館も人気商売だし、三千子とてもムラサキのマダムとしての人気商売だし、町医者だってまあ言わば同類だし、大事件ならばとにかく、つまらない事件では名声を世に売るわけにはゆかず、高木の希望通りになって、警察の方にも内密に終った。あの温厚な高木にそんな臨機な才能があろうとは、私には思いがけなかった。もっとも、その翌日、私は高木から電話で呼び寄せられて、いろいろ相談に応じてやり、進んで前後措置の手助けもしたのである。
 次に、これは非常にデリケートな問題だが、三千子は意識を回復してから高木に逢いたがらなかった。というよりも、逢うのを恐れた。そのことを私から高木に伝えると、高木は例の微笑を含んだ眼眸で、事もなげに頷いて、彼女に逢おうとはせず、万事の交渉を私に任せた。前に、高木の告白とか三千子の告白とか名づけたのも、この交渉に当って、私が当人たちから聞いた話を私流にまとめあげたもので、真偽のほどは私の保証の限りではない。
 改めて言うまでもなく、私は高木恒夫の旧友であり、ムラサキの常客として村上三千子の相当の信用もあるのだ。
 さて、つまらない事柄は省略して、この事件の結末だけを述べることにしよう。
 高木は、三千子の回復を知っても、さして喜んだ風はなかった。その代り、彼女が結婚を希望するなら結婚もしようし、単に同棲生活を希望するなら同棲生活もしようし、今迄通りの生活を希望するならそれでもよかろう、とそういう意志を私に伝えた。然し、彼女と別れてしまうということは、一言も言わなかった。
 私は彼に抗議した。おひと好しすぎると抗議した。第一の条件は、これまでも二人の間はうまくゆかなかったのだから、別れるのを当然とすべきであったのだ。
「そりゃあ君、別れたって一緒になったって、結局同じことじゃないか。」
 高木の返答は、高木としては明快を極めていた。
 一方、三千子の方は、高木に逢いたがらず、そのくせ、高木のことを根掘り葉掘り聞きたがり、私も少々持てあました。それから次に、高木のことをふっつり口にしなくなった。いやな兆候だと私は思った。
 ムラサキの店の方は、菊ちゃんが、料理番相手にどうかこうか続けていた。三千子は退院後しばらく、あまり店の方に
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