。軋るような引きち切るような声音になったばかりでなく、言葉の一つ一つが余韻の連絡なしに別々に出てきた。私は何だか恐ろしくなって、もう云い止めさせようと思ってるうちに、彼の言葉がぷつりと途切れたのである。喫驚して顔を挙げると、彼は眼をぎらぎら光らして息をつめていた。はっと思って私が手を出そうとしたとたんに、激しい咳の発作が起った。横向きに上半身をくねらしてるのへ、私は手を添えてやった。暫くは夢中だった。
すぐに看護婦がはいって来た。やがて敏子さんもやって来た。痰吐の中に可なりの量の血痰が吐き出され、水薬で含嗽がなされ、枕が高められ、額に氷嚢がのせられ、そして吉岡が眼をつぶって仰向してる間に、私はいつしか次の室に退いて端坐していた。気がついてみると、私は何とも云えない消え入りたいような思いに沈んで、戸外の虫の声に聞き入っていた。
長い時間がたった。病室の中は静まり返って、人声も物音もしなかった。遂に敏子さんが足音を偸んで出て来て、私を母屋の玄関の方へ連れ出してくれた。
「済みませんでした。」と私は云った。
「いいえ、私こそ。」
そして敏子さんは泣きたそうな顔をして俯向いてしまった。
「事情は大体分りました。何でもないことです。明日また参ります。あなたはなるべく側についてて上げて下さい。」
云い捨てて私は外に出た。空の明るい晩だった。暫く歩いてるうちに気分が静かに落付いてきた。敏子さんに何とも話さず出て来たことが気になって、よほど引返そうとしたけれど、思い直して歩き続けた。
その晩私は街路を長い間歩きながら、いろんなことを考え廻した。然しそれは私一個のことだから凡て省略しよう。そして結局私は、吉岡の心が想像以上に深い所へ落込んでることを知り、また自分にも或る責任がかかってることを感じて、一種の解決案を思いついたのである。――いろんなことを突っつけば突っつくほど、問題は益々こんがらかってゆくばかりだから、いっそ問題の初めに溯って、その一つを解く方がよい。即ち、河野が持って来た八百円の金は、無理算段して拵えられたものかそれとも訳なく出来たものか、それさえ明かになれば、他のことは自然と解決されるだろう。訳なく出来たものとすればこの上ないけれども、たとい無理算段して拵えられたものであっても、そうでないと河野から一言云って貰えば、それで吉岡の心も解けて和ぐだろう。
その一事に私は最後にしがみついていった。そして急に凡てが片付いたような、晴々とした所へ出たような気がした。
三
翌日私は郊外の河野の家を訪れた。河野が朝寝坊のことを知ってて油断したために、出かけた後で逢えなかった。それで至急用が出来たから帰ったらすぐに来てくれるようにと、細君に云い置いてきた。その足で私は吉岡の家へ廻った。敏子さんは睡眠不足のはれぼったい顔をしていた。然し吉岡の容体に変りもないことを聞いて私は安心した。河野が来たらすぐに私の家へ来てくれるように頼んだ。
「河野君に逢った上でまた参ります。一寸話をすればすぐに分ることで、吉岡君の心もそれで解ける筈です。でもそれまでは、私が来たことは内緒にしといて下さい。気を遣うといけませんから。」
そして私は玄関だけで辞し去った。
河野に逢って一言話しさえすればよい、と私は思っていた。そして自宅で河野を待ち受けた。待ち続けて少し苛ら苛らしてる所へ、午後四時頃、河野はやって来た。
河野は敏子さんから何か云われたらしく、気掛りな面持で額の毛をかき上げながら尋ねた。
「吉岡君の所へ行くと、君が僕を待ってるということだったから、すぐにやって来た。何か吉岡君にも関係のある話だそうだが、どういうことなんだい。」
長い髪の毛をもじゃもじゃに乱し、少し時候後れのセルの着物をきて、髭の剃り後を気にするらしく、言葉の合間合間には左手の先で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を撫で廻してる彼の様子を見ると、あの八百円が可なり無理をして拵えられたものであることを、私は殆んど直覚的に悟った。そしてなるべく遠廻しに話を持ち出した。
「昨日君は吉岡君の家に行ったそうだね。」
河野は直截に答えた。
「ああ、昔かりてた金を返しに行った。敏子さんに渡して来たんだが、そのことも君に逢えば分ると敏子さんは言っていた。何か間違ってたのかい。」
「いや間違いというんじゃないが、君が昨日行った時、吉岡君はどんな風だった。」
「どんな風って、非常に機嫌よくいろんなことを話しかけるものだから、一寸のつもりが一時間近くも話し込んでしまった。」
私はその時のことを詳しく尋ねた上で、吉岡の気持がだんだんはっきり分って来たので、卒直に其後の顛末を述べて、自分の考えを持ち出してみた。
「そういうわけで、吉岡君の気持も首肯けないことはない。然し敏子さんもひどく心配してるし、もし病気にでも障るようなことがあったら困るから……。」そこで私は吉岡の最後の言葉を思い出して、非常に陰欝な気分に閉された。「何とか吉岡君の心を和らげたいと思うんだ。それには問題の初めに溯って、君が持って行った八百円の金が、全く訳なく出来たものだということを、たとい実際はどうだろうとも、あり余ったのを何気なく返しに行ったという風に、吉岡君に信じさせるに限ると思うんだがね。」
河野は太い眉根をきっと寄せて、左手で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を強くしごきながら、黙って考え込んでいた。
「どうだろう。そういう風にはゆかないものかしら。」
河野は顔を伏せながら答えた。
「僕にしろというなら、僕は何とでもするし、どんな嘘を云ってもいい。然し吉岡君はそんなことを信じやすまい。実際のところ、僕にとってはあの八百円は大金だったのだ。方々借り歩いて、足りない所は妻の着物までも質に入れたんだ。僕はあの金を敏子さんに渡す時、どんなにか恥しい思いをした。敏子さんは受取りながら顔を赤くしたようだったが、屹度僕の様子を気の毒に思ったに違いない。僕は顔中真赤になってしまった。封筒の中の金が、二十円や十円や五円などごたごたした紙幣《さつ》になってるのが、ぱっと頭に映ってきて、それを寄せ集めた時の惨めさが心にきたからだ。僕が吉岡君の前にじかに出せなかったのも、今から考えると、そんなことも原因だったような気がする。」
「それじゃ君、そんなに無理して返さなくともよかったじゃないか。」
河野はまた左手で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をきゅっとやった。
「そう云えばそうなんだが……いや、そこがやはり吉岡君の誤解の重な原因だろう。僕は可なり金銭には無頓着で、随分友人の金を借りっ放しにしてるのもある。然しどういうものか、吉岡君から借りたのだけは、妙に頭にひっかかっていた。一番苦しい時で一番有難かったので、強く頭に刻み込まれているせいかも知れない。然し僕は何も、吉岡君がいつ死ぬかも分らないから今のうちにって、そんな気持は少しもなかったのだ。あんまりひどい誤解だ。或は妻にはそんな気持が多少あったかも知れない。早くお返ししなければ済まないと始終言ってたから。然しそれは女のことだから、大目に見てやってもいいと思う。そして僕達は二人共、金を返せば恩義までも返してしまうと、そんな考え方は少しもしてやしないんだ。僕はただ感謝の念だけしか持ってやしなかった。ただ一つ、変な気持が動いてたことは事実だが……。」
「変な気持って、差支なかったら話して見給いな。」
河野は可なりの間左手で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をひねって考えていたが、私の方をじっと見ながら云い出した。
「これは恐らく僕の僻みかも知れないが……いや屹度、恩義を受けた者の忘恩な僻みだろう。吉岡君は、もうあれから四年にもなるが、金のことなんか※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気《おくび》にも出さないで、逢えばいつでも僕の芸術のことばかり尋ねてくれた。所が不思議にも、それが僕には非常につらかったのだ。金を出してくれた時、吉岡君は僕にこう云った。金のことは気にかけないがいい、返そうと返すまいと、そんなことは君の都合でどうだっていい、ただ立派な作品を生んでくれ給え、そして、気に入ったのが出来たら僕に一枚くれ給えと。その時僕は本当に感激したものだ。するとだんだん時がたつにつれて、そういう芸術上の負担が苦痛になりだしてきた。吉岡君が僕の芸術心を鼓舞してくれる度毎に、僕は実際肉体的に鞭打たれるような思いをしたものだ。八百円の金を催促してくれるなら、僕は平気でしゃあしゃあとしていたに違いない。そして金を返そうなどとは思わなかったに違いない。然し吉岡君は金銭の負担を僕に荷わしたのではなくて、僕が生命としている芸術の上の負担を荷わしたのだ。僕はそれを間違っていると云うんじゃない。不満に思ってるのでもない。いや却って、本当の友人として感謝してるくらいなんだ。それなのに、僕はそのためにどんなに苦しい思いをしたか分らないのだ。僕は今その気持をはっきり説明することは出来ないが、君にも同感は出来るだろう。」
私は黙然としてただ首肯いてみせた。
「僕はその苦しさから遁れたいために、妻と一緒になって八百円を調達することにした。勿論金を返したって、恩義を返してしまうことにはならないから、芸術上の負担が軽くなるとは思ってやしなかった。が何かしら、せめて金でも返したらという気持だったのだ。そして吉岡君があんなにひどいとは思わなかったものだから、八百円出来るとすぐに持っていったのだが、僕としては、もっと単純に受け容れて貰いたかった。吉岡君の気持を聞いたり自分の気持を顧みたりすると、僕は変に頭が重苦しくなってくる。」
太い眉の下に眼を見据えて、歯を少し喰い違いにかみしめて、黙り込んでしまった彼の様子を見てると、私も変に頭が重苦しくなってくるのを感じた。それからなおぽつりぽつりといろんなことを話し、次に二人で一寸した食事をしに出かけ、酒を飲みながらも話したが、結局取り留めもないことばかりで、畏友としての吉岡に対するどうにも出来ない感情に浸って、口を噤む外はなかった。そしてその間に私は、八百円が雑作なく出来たというような嘘を、河野の口から吉岡へ云わせることは、実際に出来もしなければ、よし出来たとて不結果に終るのみである、ということをはっきり感じた。
「どうしたらいいんだろう、僕は。」
街路の片端に立止って、河野は私の心に向ってじかに呼びかけてきた。
「兎に角、もう一日二日待っていてくれ給え。何とか僕が取計ってみるから。」
「君はこれから吉岡君の所へ行くのか。」
「うむ、敏子さんに約束したこともあるので。」
河野はじっと私の顔を見ていたが、何か云い出そうとするのを思い返したらしく、ぐるりと向きを変えて歩み去った。
私は一人で前晩のようにまた街路をさ迷い歩きながら、凡てのことを考え廻してみた。一寸した気の持ちようで何かの糸口さえ掴めば、それで問題は訳もなく解決しそうな気がしたけれど、その糸口がどうしても掴めなくて、底深いこんぐらかったものの中へすぐにまた陥っていった。そして結局私は、凡てをそっくり否定してかかろうとした。吉岡をあのまま放っておくのは気に掛ることだったけれど、もう最後の手段として何事にも触れないで、時の経過を待つの外はないと腹をきめた。
からりと晴れて、月の光の冴えた、涼しい晩だった。私はその月の光を見い見い、自分の陰欝な気分を払い落そうとしながら、吉岡の家へやって行った。もう十時近かった。
「如何でございましたの。」
敏子さんは何もかも一度に尋ねかける眼付で私を迎えた。私はそれには答えないで、先ず吉岡の様子を尋ねた。
吉岡の容態はよくなかった。午後に来診してきた医者は、首をひねって、何か無理をしはしなかったかと尋ねたそうだった。神経が非常に尖っていて、それが一々患部を刺戟するような状態になっているので、最も平静にさしておかなければいけないと、眉をひそめながら云い置いていったそうだった。吉岡は別に苛ら立った風もなく、熱も下り咳も余り
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