顔にふと苦しい表情が浮んだ。それに気付いてか、敏子さんは急に折れて出た。
「では吉岡が何と申しますか、兎も角も明日までお預りしておきますから、明日にでも……明後日にでも、おついでの時にお寄り下さいませんか。」
そして敏子さんは厚っぽくふくらんでる洋封筒を手に取りながら、かすかに顔を赤らめた。河野も同時に顔を赤くした。
二
吉岡は河野との対語に気疲れがしたせいか、うとうとと眠っていた。それで、敏子さんが八百円のことを彼へ話したのは、晩の六時半頃だった。
「私少しも知らなかったものですから、あなたにお聞きしてからと思いましたけれど、河野さんがあんまり仰言るので、何だかお気の毒のような気がしまして、一時お預りしておきましたが、どう致しましょう。受取っても宜しいでしょうか。」
吉岡は差出れた洋封筒をちらりと見やって、それから眉根をしかめたまま考え込んでしまった。その様子が敏子さんの腑に落ちなかった。だいぶ待ってから、低い声で尋ねかけた。
「他に何か訳がありますのですか。河野さんはただあなたから借りたのだと、それだけしか仰言いませんでしたが……。」
「一体河野君はお前にどんなことを云ったんだい。」
それで敏子さんは河野から聞いたことを――八百円の事件を――吉岡に話した。が吉岡は、そんな話はどうでもいいという風に、彼女の言葉を遮って尋ねた。
「どういうつもりで河野君は、今時分そんな金を拵えて返しに来たのか、そして僕には何とも云わないで、お前にそっと渡していったのか、そんなことについては何とも云ってやしなかったのかい。」
「いいえ別に……。ただあの時助けられたお影で、今はどうにか生活が立つようになったのだから、あなたにも安心して頂きたいと、そんなお話でしたわ。そして、つい話し込んで云いそびれたから、私へお渡ししておくと云って……。」
そこで吉岡はまた黙り込んで、仰向に寝たまま天井を睥めていた。それが十分か十五分も続いた。敏子さんはどうしていいか分らなくなって、彼の枕頭に散らかってる画集や雑誌などを片付けた。すると、其処にぽつりと置き残されてる洋封筒へ、吉岡は急に片手を差伸して、中の紙幣を引出したが、暫くじっと見てた後に、苛立たしく投り出した。紙幣がぱっと乱れ散った。
「まあー。」
呆気にとられてる所へ、怒った声で押っ被せられた。
「勝手にするがいい。」
敏子さんは面喰った気持で、散らかってる紙幣をぼんやり眺めていた。そこへ看護婦がはいって来た。敏子さんは顔を真赤にして、紙幣をかき集めた。
「あら、どうなさいましたの。」
不用意に発した言葉に看護婦も自分でまごついて、室の隅っこへ行って坐った。
吉岡は一言も発しなかった。何か一心に考え込んでるらしい眼付で、じっと天井を睥め続けていた。暫くたって敏子さんが言葉をかけても、眉根一つ動かさなかった。病気が悪くなってから、彼のそういう執拗な不機嫌さに馴れていたので、敏子さんは強いて問題に触れないことにして、金を納めた洋封筒を帯の間に差入れた。
それから三十分とたたないうちに、吉岡の蒼白い頬にぽっと赤味がさして、額に汗がにじんできた。看護婦が調べてみると、熱が高まって脈搏も多くなっていた。
「何かひどく興奮なすってるようでございますが……。」
小声で看護婦からそう囁かれて、探るような眼付で見られると、敏子さんは訳の分らない狼狽を覚えた。腸に新たな障害を来してるので、大切な時期にさしかかってると、主治医から警告された矢先なので、猶更敏子さんは落付けなかった。
「何か気に障ることがありましたら、すっかり云って下さいよ。私で出来ることなら、河野さんにそう云ってやってもようございますし、何とでも致しますから。」
看護婦の手前も構わずに、敏子さんはいろいろ尋ねかけて、彼の心を和らげようとしたが、彼は黙りこくって、一心に何やら考え込んでる様子だった。結核患者特有の敏感な意識と執拗な気分とで、内心の或る不愉快なものにじりじり絡みついていってることが、敏子さんにもはっきり見えてきた。それと共に、看護婦が妙に二人の間を距てるような気勢を示してきたことも、敏子さんの心を打った。
敏子さんは家の中を、あちらへ行ったりこちらへ来たりして、いつになく気が落付けなかった。
そういう所へ私はひょっこり行き合したのである。
敏子さんは私をいきなり茶の間へ引張っていって、其の日の出来事を話してきかした。然し聞いてる私にも更に要領が掴めなかった。敏子さんには猶更だったらしい。
「ええ、さっぱり訳が分らないから困ってしまいますの。何で吉岡がああ苛ら苛らしだしたのか、それさえ分っておれば、何とかしようもありますけれど、いくら考えても合点がゆきませんのよ。もし……何でしたら、あなたからそっと聞いて頂けませんでしょうか。」
頼まれてみれば引受けないわけにはゆかなかった。然し私はそういうことには極めて不向だった。その上、何だか馬鹿馬鹿しいことのようでもあるし、非常に込み入った重大なことのようでもあるし、一寸掴み所がなかった。河野が四年前に借りた八百円を返しに来た、単にそれだけの当り前のことで、別に不思議はないのだから、吉岡がつまらないことに神経を苛ら立たせてるのか、または裏面に複雑な事情が潜んでるのか、どちらかに違いなかった。がどちらにしろ、吉岡が危険な容態である以上は、それに触れるのは困難なことだし、一歩離れて考えれば、馬鹿げてることだった。まあいいや、吉岡に逢った上で……そう私は決心して、病室へ通った。
その時私は幸にも、ロシアやドイツやスウィスあたりの、人形や木彫の玩具などの画帳を一つ見出して、吉岡の無聊を慰めるためにと持って来ていた。で何気なく病室にはいっていって、それを吉岡の枕頭に差出した。
「一寸面白いものが見当ったから持って来たよ。」
「そう、有難う。」
吉岡は私の方をちらと見やって答えたまま、画帳には手も触れなかった。
「気分はどうだい。」
「うむ。」
曖昧な返事をして、私の方を見向きもしなかった。
その不機嫌な様子よりも、何だかじりじりしてるらしい顔付に、私は注意を惹かれた。もう十日ばかり食慾不振で、僅かな流動食しか取っていないので、眼が凹み頬の肉が落ちてるのは当然だが、その顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりに蒼白い筋が浮いて、びくりびくり震えていて、一寸した衝動にもそれが手足の先まで伝わってゆき、神経質な痙攣的な震えとなってゆきそうだった。こんな風じゃとても駄目だと私は思った。そして暫く黙ってた後に、早く退出して用件を敏子さんに返上しようと考え初めた。
その時、吉岡は不意に看護婦の方へ呼びかけた。
「一寸話があるから、あちらへ行っててくれないか。」
私は吃驚したが、看護婦は落付払っていた。
「でも、余りに込み入ったお話をなさいますと……。」
「大丈夫だ。一寸の間だから。」
看護婦が意味の分らない目配せを私の方にして、不機嫌そうに出て行った時、私はもう蛇の前に出た蛙のように竦んでしまったのである。そういう私に向って、吉岡は一二分の沈黙の後、いきなり爆発しかけてきた。
「君は敏子に頼まれて僕の所へやって来たんだろう。」
私はぎくりとしたが、眼を外らし努めて平気に答えた。
「いや別に……。先刻も云った通り、その珍らしい画帳が見付かったので……。」
「初めはそのつもりだったろうが……。いやもういいや。君の好意は僕にもよく分ってる。僕は人の好意を無条件に受け容れることが好きなんだ。皆僕のことを思ってしてくれてるんだから、僕はただ感謝している。然し君達はどうしてそう寄ってたかって、陰でこそこそ相談し合ってるんだい。僕がもう明日でも死ぬかと思ってるのだろう。」
私は黙って彼の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]の震えを見ていたが、どうせ遁れられないことと思って、じかに問題に触れていった。敏子さんがひどく心配してることや、敏子さんから頼まれたことなどを打明けておいて、それから、河野が金を返しに来たのはただ当り前のことで、それを気にするのが可笑しいというようなことを、静に説き初めた。然し吉岡は私の言葉が終るのを待たなかった。病的な鋭利な調子で私に突きかかってきた。
「河野君があの八百円の金を返しに来たのは、表面から見れば何でもない当り前のことさ。然しその気持を僕は不快に思うのだ。今のうちに返しておかなければ、もし僕が死にでもしたら……とそう思って、急いで金を拵えて持って来たのだ。河野君にとっては、金を返す返さないが問題じゃない。もしそれだけのことだったら、僕が生きてるうちに返そうと、僕の死後敏子へ返そうと、同じじゃないか。僕にとっては、八百円の金くらい何でもないことを、河野君はよく知ってる筈だ。僕はあの時から、……もう四五年になると思うが、一度だって金のことなんかを河野君に云った覚えはない。僕の一寸したあれだけの好意でも、河野君の生活に何かの役に立って、それで河野君が立派な作品を拵えてくれたら、それだけで僕は満足なんだ。金のことなんかどうだっていい。ただ、君から立派な作品が生れるように祈ってると、僕はあの時云っておいた筈だし、其後だって、僕が気にしてたのはただ河野君の芸術だけだった。それなのに、金のことは不愉快だから敏子にまでも隠しておいたのに、こんどのことで、僕は美事に裏切られてしまったような気がする。八百円余った金があって、虚心平気で返しに来てくれたのなら、僕も何とも思やしない。然し、苦しい中を無理算段して、僕の生きてるうちに返さなければ永久に機会を逸する、とそういう気持でされたんでは、僕だって面白くないじゃないか。僕は河野君からそれほど敵愾心を持たれることをした覚えはない。考えて見ると、昔河野君が今の細君と恋し合って同棲しようとした時、断然反対したことはある。また河野君の作品について、不満な点を指摘したことはある。然し河野君が僕の言葉なんか無視して、細君と同棲して落付いた生活にはいったり、自分の信ずる手法で製作を続けていったりするのを見て、僕は却って心嬉しく思ったものだ。それを河野君はよく知っててくれる筈だ。僕はなまじっか財産を持ったり、また肺病にとっつかれたりして、何一つまとまった仕事を為し得ないで、空疎な生活を送っているので、河野君が一本調子の途をぐんぐん歩いてることを、友人として非常に力強く思ったものだ。よかったら僕の財産なんか全部使ってくれても構わない、とそんな気がしたことさえある。それを僕は美事に裏切られてしまったのだ。」
私は彼の調子に威圧された形で、そして彼の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]の震えに気を取られながら、弱々しく反対してみた。
「然し河野君は、何もそんな……裏切るとか、君の死を予想してとか、そんな気で金を返しに来たのじゃなくて、ただ単純な気持からだったろうと思うよ。」
「それじゃあなぜ、僕にじかに話さないで、帰りぎわに敏子へそっと渡していったのだ。僕の病気がひどいからというのか。……病気がひどいというのは、何時死ぬか分らないという意味じゃないか。河野君ばかりじゃない。敏子だって……君だって、そう思ってることが僕にはよく分る。医者も看護婦もそうなんだ。皆で陰でこそこそやりながら、僕に死の宣告を与えようとしている。然し僕はあくまでそれに反抗してみせるつもりだ。たとい長くは生きられないとしても、僕は死ぬという自覚で死んでゆきたくはない。死ぬ間際まで生きるという意志でいたいのだ。死を自覚して安らかに大往生をしたなどという人の話を、僕は全然信じない。この数日間の経験から信じない。皆が寄ってたかって、君はもう二三日しか生きられないと云っても、僕はあくまでも生きるという意志を持ち続けてみせる。僕は初め、河野君だけはそういう僕の味方であると思っていた。然し今では……。」
云いかけて彼は喉をつまらしてしまった。私は先程から、私の言葉が一寸挾まった間の休息の後、彼の声の調子がすっかり変ったのに気付いていた
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング