頭が重苦しくなってくる。」
 太い眉の下に眼を見据えて、歯を少し喰い違いにかみしめて、黙り込んでしまった彼の様子を見てると、私も変に頭が重苦しくなってくるのを感じた。それからなおぽつりぽつりといろんなことを話し、次に二人で一寸した食事をしに出かけ、酒を飲みながらも話したが、結局取り留めもないことばかりで、畏友としての吉岡に対するどうにも出来ない感情に浸って、口を噤む外はなかった。そしてその間に私は、八百円が雑作なく出来たというような嘘を、河野の口から吉岡へ云わせることは、実際に出来もしなければ、よし出来たとて不結果に終るのみである、ということをはっきり感じた。
「どうしたらいいんだろう、僕は。」
 街路の片端に立止って、河野は私の心に向ってじかに呼びかけてきた。
「兎に角、もう一日二日待っていてくれ給え。何とか僕が取計ってみるから。」
「君はこれから吉岡君の所へ行くのか。」
「うむ、敏子さんに約束したこともあるので。」
 河野はじっと私の顔を見ていたが、何か云い出そうとするのを思い返したらしく、ぐるりと向きを変えて歩み去った。
 私は一人で前晩のようにまた街路をさ迷い歩きながら、凡てのことを考え廻してみた。一寸した気の持ちようで何かの糸口さえ掴めば、それで問題は訳もなく解決しそうな気がしたけれど、その糸口がどうしても掴めなくて、底深いこんぐらかったものの中へすぐにまた陥っていった。そして結局私は、凡てをそっくり否定してかかろうとした。吉岡をあのまま放っておくのは気に掛ることだったけれど、もう最後の手段として何事にも触れないで、時の経過を待つの外はないと腹をきめた。
 からりと晴れて、月の光の冴えた、涼しい晩だった。私はその月の光を見い見い、自分の陰欝な気分を払い落そうとしながら、吉岡の家へやって行った。もう十時近かった。
「如何でございましたの。」
 敏子さんは何もかも一度に尋ねかける眼付で私を迎えた。私はそれには答えないで、先ず吉岡の様子を尋ねた。
 吉岡の容態はよくなかった。午後に来診してきた医者は、首をひねって、何か無理をしはしなかったかと尋ねたそうだった。神経が非常に尖っていて、それが一々患部を刺戟するような状態になっているので、最も平静にさしておかなければいけないと、眉をひそめながら云い置いていったそうだった。吉岡は別に苛ら立った風もなく、熱も下り咳も余り出なかったが、ただ脈搏が非常にいけなかった。
「それならば猶更、もうあのことには触れないで、そっとしとく方がいいでしょう。」
 そう私は結論から先に云っておいて、前日の吉岡との話やその日の河野との話などを、かいつまんで敏子さんに聞かした。
「そんな風に変に気持が喰い違っているので、触れれば触れるほどこんぐらかるばかりです。黙ってそっとしとくより外はないと思いますが……。」
「そうでございますね。」
 敏子さんは私の下手な説明が腑に落ちたかどうか、曖昧な返辞をしたが、不意にぎくりとしたような様子で、帯の間から大きな洋封筒を取り出した。
「でも、このお金は、どうしましょう。」
 敏子さんはその洋封筒を、前日からずっと、そしてその日も朝から、帯の間に挾んで持ってたものらしい。それが妙に私の心を惹いた。
「そんなものはどこか、おしまいなすっといたらいいでしょう。そのうちに片がつくでしょうから。」
 その時敏子さんが心持ち眼を丸くして、ちらと微笑の影を浮べたので、私は大変心が軽くなるのを覚えた。そして一寸病室に通して貰った。
 私の考えでは、晴々とした顔付でいっていって、昨日のことなんかはけろりと忘れはてた様子で、当り障りのない挨拶をして、少くとも表面は黙殺で一切のけりをつける、とそういうつもりだった。変に相手の気持を探ろうとするようなことよりも、呑気を装ったこの芸当なら、私にもよく出来そうだった。所が病室の前までくると、変に何か重苦しいものに威圧される心地がして、頬の筋肉が独りでに硬ばってくるのを覚えた。
 吉岡は仰向きに寝ていた首を少し私の方へ向けかけたが、すぐにまた元の姿勢に返った。私は少し離れた所に坐りながら、云訳でもするような調子で云った。
「ぶらりと散歩に出てみた所が……。」その時、先刻見た東の空を出たばかりの綺麗な月が私の頭に映った。「あんまり月が綺麗なものだから、当もなく歩いてるうちにこの近くまで来たので、一寸寄ってみた。外はいい月夜だよ。」
「え、そんなにいい月なのか。」
 何気なく云ったことが不思議に強く反応したので、私は少し面喰った。
「なに、平凡なただの秋の月なんだが……。」
「そりゃあ月に変りはないさ。」
 切り捨てるように云い放って、電燈をまじまじと見守ってる顔の、骨立った所々に光を受けて、肉の落ちた凹みには、仄暗い影が匐い寄っていた。それを何気な
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