さんもひどく心配してるし、もし病気にでも障るようなことがあったら困るから……。」そこで私は吉岡の最後の言葉を思い出して、非常に陰欝な気分に閉された。「何とか吉岡君の心を和らげたいと思うんだ。それには問題の初めに溯って、君が持って行った八百円の金が、全く訳なく出来たものだということを、たとい実際はどうだろうとも、あり余ったのを何気なく返しに行ったという風に、吉岡君に信じさせるに限ると思うんだがね。」
 河野は太い眉根をきっと寄せて、左手で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を強くしごきながら、黙って考え込んでいた。
「どうだろう。そういう風にはゆかないものかしら。」
 河野は顔を伏せながら答えた。
「僕にしろというなら、僕は何とでもするし、どんな嘘を云ってもいい。然し吉岡君はそんなことを信じやすまい。実際のところ、僕にとってはあの八百円は大金だったのだ。方々借り歩いて、足りない所は妻の着物までも質に入れたんだ。僕はあの金を敏子さんに渡す時、どんなにか恥しい思いをした。敏子さんは受取りながら顔を赤くしたようだったが、屹度僕の様子を気の毒に思ったに違いない。僕は顔中真赤になってしまった。封筒の中の金が、二十円や十円や五円などごたごたした紙幣《さつ》になってるのが、ぱっと頭に映ってきて、それを寄せ集めた時の惨めさが心にきたからだ。僕が吉岡君の前にじかに出せなかったのも、今から考えると、そんなことも原因だったような気がする。」
「それじゃ君、そんなに無理して返さなくともよかったじゃないか。」
 河野はまた左手で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をきゅっとやった。
「そう云えばそうなんだが……いや、そこがやはり吉岡君の誤解の重な原因だろう。僕は可なり金銭には無頓着で、随分友人の金を借りっ放しにしてるのもある。然しどういうものか、吉岡君から借りたのだけは、妙に頭にひっかかっていた。一番苦しい時で一番有難かったので、強く頭に刻み込まれているせいかも知れない。然し僕は何も、吉岡君がいつ死ぬかも分らないから今のうちにって、そんな気持は少しもなかったのだ。あんまりひどい誤解だ。或は妻にはそんな気持が多少あったかも知れない。早くお返ししなければ済まないと始終言ってたから。然しそれは女のことだから、大目に見てやってもいいと思う。そして僕達は二人共、金を返せば恩義までも返してしまうと、そんな考え方は少しもしてやしないんだ。僕はただ感謝の念だけしか持ってやしなかった。ただ一つ、変な気持が動いてたことは事実だが……。」
「変な気持って、差支なかったら話して見給いな。」
 河野は可なりの間左手で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をひねって考えていたが、私の方をじっと見ながら云い出した。
「これは恐らく僕の僻みかも知れないが……いや屹度、恩義を受けた者の忘恩な僻みだろう。吉岡君は、もうあれから四年にもなるが、金のことなんか※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気《おくび》にも出さないで、逢えばいつでも僕の芸術のことばかり尋ねてくれた。所が不思議にも、それが僕には非常につらかったのだ。金を出してくれた時、吉岡君は僕にこう云った。金のことは気にかけないがいい、返そうと返すまいと、そんなことは君の都合でどうだっていい、ただ立派な作品を生んでくれ給え、そして、気に入ったのが出来たら僕に一枚くれ給えと。その時僕は本当に感激したものだ。するとだんだん時がたつにつれて、そういう芸術上の負担が苦痛になりだしてきた。吉岡君が僕の芸術心を鼓舞してくれる度毎に、僕は実際肉体的に鞭打たれるような思いをしたものだ。八百円の金を催促してくれるなら、僕は平気でしゃあしゃあとしていたに違いない。そして金を返そうなどとは思わなかったに違いない。然し吉岡君は金銭の負担を僕に荷わしたのではなくて、僕が生命としている芸術の上の負担を荷わしたのだ。僕はそれを間違っていると云うんじゃない。不満に思ってるのでもない。いや却って、本当の友人として感謝してるくらいなんだ。それなのに、僕はそのためにどんなに苦しい思いをしたか分らないのだ。僕は今その気持をはっきり説明することは出来ないが、君にも同感は出来るだろう。」
 私は黙然としてただ首肯いてみせた。
「僕はその苦しさから遁れたいために、妻と一緒になって八百円を調達することにした。勿論金を返したって、恩義を返してしまうことにはならないから、芸術上の負担が軽くなるとは思ってやしなかった。が何かしら、せめて金でも返したらという気持だったのだ。そして吉岡君があんなにひどいとは思わなかったものだから、八百円出来るとすぐに持っていったのだが、僕としては、もっと単純に受け容れて貰いたかった。吉岡君の気持を聞いたり自分の気持を顧みたりすると、僕は変に
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