たんだろう。」
私はぎくりとしたが、眼を外らし努めて平気に答えた。
「いや別に……。先刻も云った通り、その珍らしい画帳が見付かったので……。」
「初めはそのつもりだったろうが……。いやもういいや。君の好意は僕にもよく分ってる。僕は人の好意を無条件に受け容れることが好きなんだ。皆僕のことを思ってしてくれてるんだから、僕はただ感謝している。然し君達はどうしてそう寄ってたかって、陰でこそこそ相談し合ってるんだい。僕がもう明日でも死ぬかと思ってるのだろう。」
私は黙って彼の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]の震えを見ていたが、どうせ遁れられないことと思って、じかに問題に触れていった。敏子さんがひどく心配してることや、敏子さんから頼まれたことなどを打明けておいて、それから、河野が金を返しに来たのはただ当り前のことで、それを気にするのが可笑しいというようなことを、静に説き初めた。然し吉岡は私の言葉が終るのを待たなかった。病的な鋭利な調子で私に突きかかってきた。
「河野君があの八百円の金を返しに来たのは、表面から見れば何でもない当り前のことさ。然しその気持を僕は不快に思うのだ。今のうちに返しておかなければ、もし僕が死にでもしたら……とそう思って、急いで金を拵えて持って来たのだ。河野君にとっては、金を返す返さないが問題じゃない。もしそれだけのことだったら、僕が生きてるうちに返そうと、僕の死後敏子へ返そうと、同じじゃないか。僕にとっては、八百円の金くらい何でもないことを、河野君はよく知ってる筈だ。僕はあの時から、……もう四五年になると思うが、一度だって金のことなんかを河野君に云った覚えはない。僕の一寸したあれだけの好意でも、河野君の生活に何かの役に立って、それで河野君が立派な作品を拵えてくれたら、それだけで僕は満足なんだ。金のことなんかどうだっていい。ただ、君から立派な作品が生れるように祈ってると、僕はあの時云っておいた筈だし、其後だって、僕が気にしてたのはただ河野君の芸術だけだった。それなのに、金のことは不愉快だから敏子にまでも隠しておいたのに、こんどのことで、僕は美事に裏切られてしまったような気がする。八百円余った金があって、虚心平気で返しに来てくれたのなら、僕も何とも思やしない。然し、苦しい中を無理算段して、僕の生きてるうちに返さなければ永久に機会を逸する、とそういう気持でされたんでは、僕だって面白くないじゃないか。僕は河野君からそれほど敵愾心を持たれることをした覚えはない。考えて見ると、昔河野君が今の細君と恋し合って同棲しようとした時、断然反対したことはある。また河野君の作品について、不満な点を指摘したことはある。然し河野君が僕の言葉なんか無視して、細君と同棲して落付いた生活にはいったり、自分の信ずる手法で製作を続けていったりするのを見て、僕は却って心嬉しく思ったものだ。それを河野君はよく知っててくれる筈だ。僕はなまじっか財産を持ったり、また肺病にとっつかれたりして、何一つまとまった仕事を為し得ないで、空疎な生活を送っているので、河野君が一本調子の途をぐんぐん歩いてることを、友人として非常に力強く思ったものだ。よかったら僕の財産なんか全部使ってくれても構わない、とそんな気がしたことさえある。それを僕は美事に裏切られてしまったのだ。」
私は彼の調子に威圧された形で、そして彼の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]の震えに気を取られながら、弱々しく反対してみた。
「然し河野君は、何もそんな……裏切るとか、君の死を予想してとか、そんな気で金を返しに来たのじゃなくて、ただ単純な気持からだったろうと思うよ。」
「それじゃあなぜ、僕にじかに話さないで、帰りぎわに敏子へそっと渡していったのだ。僕の病気がひどいからというのか。……病気がひどいというのは、何時死ぬか分らないという意味じゃないか。河野君ばかりじゃない。敏子だって……君だって、そう思ってることが僕にはよく分る。医者も看護婦もそうなんだ。皆で陰でこそこそやりながら、僕に死の宣告を与えようとしている。然し僕はあくまでそれに反抗してみせるつもりだ。たとい長くは生きられないとしても、僕は死ぬという自覚で死んでゆきたくはない。死ぬ間際まで生きるという意志でいたいのだ。死を自覚して安らかに大往生をしたなどという人の話を、僕は全然信じない。この数日間の経験から信じない。皆が寄ってたかって、君はもう二三日しか生きられないと云っても、僕はあくまでも生きるという意志を持ち続けてみせる。僕は初め、河野君だけはそういう僕の味方であると思っていた。然し今では……。」
云いかけて彼は喉をつまらしてしまった。私は先程から、私の言葉が一寸挾まった間の休息の後、彼の声の調子がすっかり変ったのに気付いていた
前へ
次へ
全11ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング