信ずる。私は先ず第一にこの疑問を発しておいて次の問題にはいりたいと思う。
或る作品の主人公なり其他の人物に対して倫理的批判を下すのは普通ありがちのことである。私は別にそれに異論を挟まんとする者ではない。然し私の求むる所はも一歩進んだ、も一歩深くつき込んだ批評である。
私は、如何に客観的の作品にしても必ずその底に流るる作者の主観が存するものと信ずる。これは作者の見方なり取扱方なりから自然ににじみ出す作者の人格である。人格と云って悪ければ、作品のうちに吹き込まれて漂っている作者の生きた息吹きである。即ち作品中に取扱われた人物なり事件なりの背景をなし底流をなす作者の主観である。私は、その主観に対する倫理的批評をも求めたいのである。そしてそういう批評こそ本質的に作家を導き、また芸術を導くものであると信ずる。苦しい自然主義の運動もその真の本質に於ては、こういう作家の主観を排しなかったのみでなく、一面より云えば却ってそれを高調したのであった。そしてまた芸術の本質は、こう云う境地にまで足をふみ入れた人々によって導かれて来たのであった。
然し乍ら私が我国の批評家に対して多少の杞憂を懐くのは、作品
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