、最初の数行は最も困難なものらしい。作品にはそれぞれ固有の世界があり空気がある。作者はその世界に飛び込み、その空気に肺を順応させ、其処に安住しなければならない。それは単に精神的なことばかりでなく、また肉体的なことでもある。ペンを執る手には、謂わば精神が持つ感覚と肉体が持つ意識とが在る。そして作者は全身的にはいり込む。――それは誰しもそうである。然しながら、はいり込む仕方に種々ある。それによって作品の性質が異ってくるのは云うまでもあるまい。
 一つの例証として、最も多く読まれてるらしいドストエーフスキーの代表作を取ってみよう。(訳文は手許にある書物から借用する。)

  「罪と罰」――
 七月の初め、恐ろしく暑い時分の夕方ちかく、一人の青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、何となく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。
 彼はうまく階段で主婦と出くわさないで済んだ。彼の小部屋は、高い五階の屋根裏にあって、住まいというより寧ろ戸棚に近かった。女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿の主婦は、一階下の別なアパートに住んでいたので、彼はどうしても通りへ出
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