礎工事を施し、その上に石を据え煉瓦を積み、柱を立て屋根を覆い、そうした建築工程を側に立って見守っているものと、常識的には考えられる。だが、真の建築家は恐らくそうではあるまい。文学上の作者は更にそうではない。それぞれの円柱を、それぞれの硝子板を、それぞれの屋根瓦を、建築全体を自分の双肩に荷っている。体力が続かない場合には作品を投げ出して砕くか、或は其重みの下に圧倒されるからである。
ドストエーフスキーに就いて繰返して云おう。あの集約的な構成、陰惨な事件、異常な人物、深く激しく錯綜葛藤してる心理、それらの渦巻や突風のなかに、作者は身を以て飛びこみながら、実はまた、その全体を双肩に荷っているのである。精神と肉体とをこめた謂の体力が、よほど強大でなければ、よほど逞ましくなければ、それは持ちこたえられるものではない。
彼はそれを持ちこたえた。最後まで持ちこたえた。だが、その最後に、彼の吐息を聞いてみよう。――作品の結末の数行に、その吐息が聞かれないであろうか。
「罪と罰」――
……こうした幸福の初めのあいだ、彼らはどうかした瞬間に、この七年を七日と見るくらいの心持になった。彼は、この新生活が無償で得られたのではなく、まだまだ高い価を払ってそれを買い取らねばならぬ、そのためにはゆくゆく偉大な苦行で支払をせねばならぬ、ということさえ考えないほどだった。
しかし、そこにはもう新しい物語が始まっている――一人の人間が徐々に更新してゆく物語、徐々に更生して、一つの世界から他の世界へ移ってゆき、今まで全く知らなかった新しい現実を知る物語が、始まりかかっていたのである。これは優に新しき物語の主題となり得るものであるが、然し本篇の此物語はこれで終った。
「白痴」――
……やがて、全く夫人の見分けさえもつかなかった公爵を、昂奮にふるえる手で指しながらつけ加えて「もう、浮気をするのも沢山だわ。分別がついてもいい頃です。こんなものはみんな、こんな外国の暮しや、あなた方の欧羅巴は、みんな一つの幻影です。外国にいるわたしたちも、みんな一つの幻影です。……わたしの言葉を覚えていらして下さい。御自分で今にお分りになりましょう!」夫人はエヴゲニイ・バーヴロウィッチと別れるとき、殆んど憤激の態でこう結んだという。
「悪霊」――
ウリイ州の市民は、すぐ戸の向側にぶら下っていた。卓の上には、小さな紙きれが載っていて、「何人をも罪する勿れ、余みずからの業なり。」と鉛筆で書いてあった。同じ卓の上には、一挺の金槌と、石鹸のかけと、あらかじめ予備として用意したらしい、大きな釘が置いてあった。ニコライが自殺に使った丈夫な絹の紐は、まえから選択して用意したものらしく、一面にべっとりと石鹸が塗ってあった。すべてが前々からの覚悟と、最後の瞬間まで保たれた明確な意識とを語っていた。
町の医師たちは死体解剖の後、精神錯乱の疑いをぜんぜん否定した。
「カラマーゾフの兄弟」――
「では、これで話は止して、これから法事に参りましょう。プリンだって心配せずに食べればいいんです。あれは古い古い昔からの習慣で、その中には美しい点もあるのです。」とアリョーシャは笑って、「さあ、行きましょうよ。さあ手をつないで行きましょう。」
「そして永久にそうしましょう、一生のあいだ手に手をとって行きましょう! カラマーゾフ万才!」とコオリャが歓喜のあまり再び叫ぶと、少年たちももう一度その声に調子を合せた。
勿論、茲でもこれだけの引用では足りないが、最後の数行に敬意を表することによって説意の補足としたのである。最初の二作のものは、一種のエピローグの最後であるが、エピローグを付けたことに注意を要するし、「悪霊」のものは、明確な意識を以て為されたということに注意したい。
さて、あれほど陰惨な物語の最後に、右のような数行が、或はその他の数頁が書かれたのである。――一体、小説の結末というものは演劇の幕切れとは異なり、まして映画の結末とは異って、さほど光明を与えなくてもよいものであり、人を安堵させなくてもよいものである。悲惨な気分のうちに読者を放置した小説も多い。然し茲ではそういうことは論外としよう。
論旨は、作者自身の呼吸に在る。作品全体の詳細な解釈をすることをやめて、以上の不備な引用の延長線上に於て、直ちに云えば、作者は最後にほっと吐息をしているのである。
そしてもうこの吐息については、肉体的なものであると共に、より多く精神的なものであると云って差支えない。巨大な苦渋陰惨なものを持ちこたえてきて、今や、その奥にともっていた一点の火を、或は顧りみ或は打仰いだという感じである。その感じを体得するには、これまで持ちこたえてくることが必須条件だった。そしてかかる吐息のなかにこそ、希望が、夢
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