ら始めようというのである。この身の上話は、一篇の物語の序言がわりのようなもので、わたしの伝えようと思っている本当の事件は、ずっと先の方にあるのだ。
ぶっつけに言って了おう。スチェパン氏はいつもわたしの仲間で、一種特別な、公民的とも言うべき役廻りを勤めていたが、またその役廻りが大好きだった――それどころではない、わたしなぞの目からは、それがなくては生きてゆかれないように、思われたほどである。……
「カラマーゾフの兄弟」――
アレクセイ・フョードロウィッチ・カラマーゾフは、その郡の地主フョードル・パーヴロウィッチ・カラマーゾフの三男で、父のフョードルは、今からちょうど三年前に悲劇的な陰惨な最後を遂げたために、その頃(いや、今でもやはりこちらでは時おり噂にのぼる)非常に評判の高かった人物であるが、この事件についてはいずれ然るべきところにおいてお話することとしよう。ここでは単にこの「地主が」(当地では彼のことをこう呼んでいたが、その実、彼は一生涯ほとんど自分の持村で暮したことがなかった)かなりちょいちょい見受けるには見受けるが、一風変った型の人間であった、というだけにとどめておこう。つまりやくざで放埓なばかりでなく、それと同時に訳の分らない人間のタイプ――尤も、同じ訳の分らない連中でも自分の財産に関する細々した事務を巧みに処理することが出来て、しかも、それだけが身上かと思われるような類いの人間であった。……
以上、簡単に引用したのであるが、いずれも大作のことであるから、実は少くとも二三頁は引用しなければ充分ではあるまい。然しこの数行によっても、大体のことは分る。つまりこのような書き出しをしたのは、作者がいきなり物語のなかに飛びこんでしまったことを示すものである。物語というのが悪ければ、事柄と云おう。或る距離に身を置いて事柄を徐々に展開して見せるのではなく、事柄の中に飛びこんでしまったのである。――これがドストエーフスキーの作品の基調をなす。彼の多くの作品が集約的に構成されてること、その事件が陰惨なこと、その人物が異常なこと、その心理の錯綜葛藤が深く激しいこと、それらの渦巻や突風の奥に一点の神秘な火が燃えてること、其他いろいろのことが指摘されている。ところで、そういう性質の事柄が作者をして事柄のなかに一挙に身を投じさしたのであろうか。或は、作者が事柄のなかに一挙に身を投じたからそういう性質の事柄になったのであろうか。これは微妙な問題であるし、作者の思考の強さ激しさに依ることでもあるが、先ず、両者は相互関係にあるものと見られる。
さて、そういう性質の事柄のなかに身を投じてそれを持ちこたえるのは、単に創作技法の上だけでも、容易なことではない。その抜け途の技法の一つに、「わたくし」なるものがある。彼の作品のなかには屡々、得体の知れない「わたくし」という者が出て来て、その「わたくし」の眼や口や耳の力をかりて叙述が進められている。この「わたくし」は、或る場合には名前を持つこともあるが、然し決して一個の人物となることがなく、謂わば普遍的な人物であり、第四人称的人物であって、その存在を見せない場合にあっても、大抵その眼はどこかに見開かれている。――この第四人称的な「わたくし」は、人間性探求の文学が発見した創作技法の究極的なものの一つであろう。
ドストエーフスキー的世界から眼を転じて、現在吾々が当面してる文学のことを考えてみよう。ここでは、建設の文学が最も要望されている。建設にも種々あるが、つまりは生活建設の謂であろう。政治上の種々の画策、経済上の種々の改革、信念上の種々の確立など、それが個人的なものと民族的なものと国家的なものとを問わずいやしくも文学の中に於ては、生活という大地に即して考案される。そして更に文学の中に於ては、生活建設と人間性探求とは、生活とか人間とかいう概念が変化しない限りは一体の両面に外ならない。
然るに、建設の文学に於て、一応、「わたくし」的創作技法が排斥されるのは、何故であろうか。結論に飛べば、「わたくし」的技法などよりも、直接に思想に頼れと云われる。思想で事象を選択し整理して、直截に叙述せよと云われる。更に卒直に、「わたくし」の代りに思想を持って来いというのである。――茲に、何か忘れられてるものがある。思想が創作上にそういう風に使用され得るものでないのは、云うまでもないことであるが、問題は創作技法にあるのでなくて、更に先方にある。
ドストエーフスキー的世界に於て、ああいう性質の事柄を持ちこたえるのが容易でないのは、創作技法の上ばかりでなく、更に多く、当の作者の体力のことになる。精神と肉体と両方をこめた体力である。
作者と作品との関係は、常識的に考えられる建築物との関係とは異る。建築家は、大地の上に先ず基
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング