作家的思想
豊島与志雄
優れた作品にじっと眼を注ぐ時、いろいろな想念が浮んでくる。それらの想念は、直ちに文学論或は芸術論になるものではない。そういうものになす前に、先ず突破しなければならないところの、または整理しなければならないところの、一種の壁であり素材である。宛も、いろいろな人間なり事実なり感情なりに当面して、それを先ず突破しまたは整理しなければ、作品にならないのと、同様であろう。――然るに、現実の人間や事実や感情と、創作された作品と、どちらがより深く人の心を捉えるであろうか。この答えは、両者の性質によって、また答者によって、さまざまであろうが、結論に飛べば、現実同様の或はそれ以上の迫力を持てと作品に要求されている。同じように、作品からじかに来る想念と同様の或はそれ以上の迫力を持つように、文学論に要求されている。このことは、純理的にはおかしい。だが真理でもある。おかしい真理が成立するところに、文学の生き物たる所以があるのであろうか。
文学そのものの生態は茲に問わず、個々の作品の生態こそ、奇妙である。その初端と結末とに於て、多くは微妙な呼吸をしている。
如何なる作家にとっても、最初の数行は最も困難なものらしい。作品にはそれぞれ固有の世界があり空気がある。作者はその世界に飛び込み、その空気に肺を順応させ、其処に安住しなければならない。それは単に精神的なことばかりでなく、また肉体的なことでもある。ペンを執る手には、謂わば精神が持つ感覚と肉体が持つ意識とが在る。そして作者は全身的にはいり込む。――それは誰しもそうである。然しながら、はいり込む仕方に種々ある。それによって作品の性質が異ってくるのは云うまでもあるまい。
一つの例証として、最も多く読まれてるらしいドストエーフスキーの代表作を取ってみよう。(訳文は手許にある書物から借用する。)
「罪と罰」――
七月の初め、恐ろしく暑い時分の夕方ちかく、一人の青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋から通りへ出て、何となく思い切り悪そうにのろのろと、K橋の方へ足を向けた。
彼はうまく階段で主婦と出くわさないで済んだ。彼の小部屋は、高い五階の屋根裏にあって、住まいというより寧ろ戸棚に近かった。女中と賄いつきで彼にこの部屋を貸していた下宿の主婦は、一階下の別なアパートに住んでいたので、彼はどうしても通りへ出るとき、大抵いつも階段に向って一杯あけ放しになっている主婦の台所わきを、通らなければならなかった。そしてその都度、青年はそばを通り過ぎながら、一種病的な臆病な気もちを感じた。彼は自分でもその気もちを恥じて、顔を顰めるのであった。彼は下宿の借金が嵩んでいたので、主婦と顔を会わすのが怖かったのである。
尤も、彼はそれほど臆病でいじけきっていた訳でなく、寧ろその反対なくらいだった。が、いつの頃からか、彼はヒポコンデリイに類した苛立しい張りつめた気分になっていた。彼はすっかり自分というものの中に閉じこもって、すべての人から遠ざかっていたので、下宿の主婦ばかりでなく、一さい人と会うのを恐れていたのである。……
「白痴」――
十一月の末のことであった。かなり暖い朝の九時頃、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は全速力でいよいよペテルブルグに近づいていた。あたりは湿っぽく、霧が深く、漸くにして夜が明け放れたと思われるくらいであった。汽車の窓からは、線路の右も左も、十歩のそとは何ひとつ容易に見わけがつかなかった。旅客の中には外国帰りの人も交っていたが、それよりは寧ろ三等車の方がずっと込んでいた。この方の旅客はいずれも程遠からぬところからやって来た小商人たちであった。例によって彼等はいずれも疲れきっていた。一晩のうちに眼は重くなり、からだは冷えきって、誰もの顔が霧の色にまぎれて薄黄いろくなっていた。
三等車の或る一室に、夜明け頃から互に向き合って坐っている二人の旅客があった。二人とも青年で、いずれも身軽で、服装も贅ってはおらず、どちらも極めて特徴のある顔をしており、二人とも、やがては話でも交わしたそうな様子をしていた。若しも彼等が互に、特にこの場合にどんなところで自分たちが際立っているのかを知り合っていたら、彼等は必らず自分たちが不思議な偶然によって、ペテルブルグ・ワルシャワ線の三等車に膝をつき合わして坐っていることに、今更ながら驚いたことであろう。……
「悪霊」――
わたしは今この町――別にこれという特色もないこの町で、つい近頃もちあがった、奇怪な出来事の叙述に取りかかるに当って、凡手の悲しさで、少し遠廻しに話を始めなければならぬ。つまり、スチェパン・トロフィーモヴィッチ・ヴェルホーヴェンスキイという、立派な才能もあれば、世間から尊敬も受けている人の、身の上話か
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