ろ、実質的なものにしろ……。」
「初めからありゃあしませんよ。」
「初めからあったんだ。」
 とうとう水掛論になってしまった。こうなると、俺は黙りこむ方がいいんだ。
 坂田は深い瞑想に沈んでるようだったが、ふと立上って、室の中を少し歩き廻り、それから帳簿をしまいこみ、長椅子にねそべって、また瞑想に沈んだ。

 中津敏子がやって来たのは、晩の八時すぎだった。坂田は長椅子に身を投げ出して、深い物思いに沈んでいた。頬に血の色がなく、眼差しには薄い幕でも垂れてるような工合だった。彼は敏子の名刺を見ても咄嗟には思い出せない様子だった。それから女中を呼びとめて、座敷の方でなくこちらに通してよいと云った。
 敏子ははいって来ると、お時儀をしてからそこに立止った。引きしまった頬にぽっと上気して、理知的な眼を伏せていた。それを坂田はじっと見やったが、予期していた人とは別な人をでも見るような眼付だった。不自然なほど長く、十秒ほどもかかって、漸く、眼の映像と意識とが会った時、坂田の頬にぱっと赤みがさした。がそれは次の瞬間に消えて、彼は中央の円卓に自らつき、その向うに敏子を招じていた。
「あの……お邪魔ではございませんでしょうか。」と敏子は低い声で云った。
「いえ、かまいません。」
 そして坂田は煙草をふかし、敏子はそれとなく室の中をうかがっていた。室の有様が彼女の想像とはまるで違っていたらしく、そちらに気をとられていた。坂田は煙草の煙の間から、彼女の無雑作な束髪や紫地に太縞のお召銘仙の着物を、ぼんやり眺めていた。彼女は自然の姿態で顔をそむけて、横手の煖炉棚の上の人形に眼をとめ、こわばった微笑が頬に浮びかけた。
「中津君に……お兄さんに、昨晩あいましたよ。」と坂田はふいに云った。
 敏子は明かにぎくりとして、そして初めて彼の顔をまともにじっと見た。意外な衝動を受けて、それが却って彼女の心を緊張させ、彼女を力づけ落着かしたらしかった。
「少しも聞きませんでしたが……どちらで……。」
「中津君はあなたに何とも云わなかったんですか。」
「ええ。昨晩……兄が戻りました時は、あたしはもう寝ていましたし、今朝は……。」
「兄さんの方が寝坊していたんでしょう。昨晩、ずいぶん酔ってましたから……。」
 そして坂田はへんに憂欝な表情になった。
「もう遅かったようです。酒に酔って、銀座裏を歩いていて、ちょっと、或る小さな飲み屋にはいると、中津君が、これも一人で、飲んでいました。それから二人ともほんとに酔っ払って、大に談じて、何が何やら分らなくなったんですが……とにかく、元気でした。」
 坂田の憂欝な表情はなお深まっていた。
「兄は、その時、何か申しておりましたか。」
「別にまとまったこともなく、二人でやたらに饒舌りちらしただけですが……。」
 敏子はじっと探るように坂田の顔を見ていた。
「あなたは、兄をどう御覧になりまして。」
「どうといって、人間はそう急に変るものじゃありませんよ。変るのは境遇だけです。中津君もこの頃は、たいへん朗かになって、前途に光明を認めてるようですね。昨晩はきき落したんですが、どこか、勤めるようにでもなったんですか。」
 そして彼は苦笑をもらした。
 俺はその会話を、煖炉の上の好きな場所、例の古い鉄の五重塔の中から、ぼんやり聞いていたのだが、余りに白々しい坂田の言葉だと思った。殊にその苦笑はいけなかった。
「ちがいます。」と敏子も叫んだ。「あなたの仰言ってることは、みんな嘘です。」
 全くそれは嘘なんだ。俺は昨晩一緒にいたからよく知っているが、中津はあの時、肱に繕いのある上衣をつけ、裾のすりきれたズボンをはき、顔も肉がおちて、胃病でも患ってるらしい色艶だった。坂田がはいっていくと、ぎょっとしたような様子で、それから慌てて立上ってお時儀をした。そして二人で飲みだしたのだが、中津はしきりに、そういう家に寄った理由を説明しだした。弁解のための説明らしかった。この頃酒とは縁遠くなっていたが、友人たちとの或る会合のあとで、久しぶりに来てみたのだとか、或る相談事のためにここで人と落合うことになったのだとか、要するに下らないことで、而も、禁酒を誓った相手にでも云うような調子だった。それから話は一転して、一般の景気のこと、就職難のこと、米穀の価格のこと、米穀統制法のことなどに及んだ。坂田はぼんやり耳をかしてるだけだった。坂田が立上ると、中津も同じく立上ってついてきた。二人はまたとあるバーにはいり、洋酒をのみ、次には鮨屋にはいった。中津は次第に精力的になっていた。政府の施設は悉く民衆を看板にしながら悉く民衆を裏切ってるとも云った。僕もこれから発奮して民衆のために戦ってやるとも云った。或る金持の道楽息子が殊に目をつけて、結婚したいとまで云ってるが、出過ぎたことをしたら殴りつけてやるつもりだとも云った。妹が……あの小切手を引裂いたのは道理だとも云った。「僕はたとえ落伍者であっても、男の意気地は失わないつもりだ。そしてブールジョアの利己心を唾棄するだけの覚悟は、常にある。妹が君のあの小切手を引裂いた心理が、僕にはよく分る。だが君には感謝しているんだよ。全く肝に銘じている。僕はただ一般的のことを云うんだ。妹のあの意気を云うんだ。妹もあとで誤解だったことは分ったらしい。だが、一般的に……一般的にだよ、僕たちは、僕も妹も……ブールジョアは嫌いだ。君をもその点でだけは嫌いだ。もうあんな……不徳義な真似はしないんだろうね。一体、人間の身体を金で買えるものだと思うか。大間違いだ。僕たちが反抗するのは、ただその点だ……。」そんなことを彼はくり返し饒舌りたて、次には、妹の健気な気性をほめ、次には、母親の病気のことや、幼児をかかえてるひ弱な妻のことなど、困窮な家庭生活の内面を曝露するのだった。
 鮨屋から出て、もう人通りもとだえがちな街路で、坂田はきっぱり立止って、中津に十円紙幣を二枚さしつけた。中津はきょとんとしていた。
「取っておけよ。あれからまた一二度借りに来たじゃないか。今日はいらないのかい。もう僕は酒はのめない。これは残りのおつりだよ。」
 中津はふらふらしながら、黙って金を受取った。
 中津をそこに置いて、坂田はさっさと歩きだした。「犬のような眼をして、どこまでもついて来やがる。」そう口の中で云って、それから何度かまた繰返したが、ふしぎに、頬に一筋涙を流していた……。
 それらのことも、すっかり酔っていた彼等二人にとっては、濃霧の中での出来事に過ぎなかったかも知れないが、然し、敏子に対する坂田の言葉は、あまりに白々しすぎるものだった。
「仰言ってることは嘘です。」と敏子は云った。「兄はもう救われなくなってるのかも知れません。毎晩のようにお酒に酔って帰ってきます。それに、あれですっかり整理がついたと思っていましたが、まだいくらか残っていたようですし、なおちょいちょい相場にも手を出して、新たな借金もこさえたようですの。そしてこの頃では、蠣殼町へんをうろついて合百とかいうようなものをやってる様子ですの。なんでも、二三円あれば出来るものとかききましたが……そして、そんなことをするのは、乞食も同様だそうですけれど……。」
 彼女は真赤になってそして真剣に、じっと坂田の顔を見ながら、ずけずけと而も整然と云い進んだ。が坂田は眼をそらして、何か他のことを考えこんでる様子だった。
 坂田はふいに顔をあげて、敏子を眺めた。が然し、まだ遠い視線だった。
「中津君は、なぜ相場なんかに手を出したんですか。」
 ぼんやりした調子だったので、それが却って敏子の胸によくはいったらしく、彼女は曖昧な微笑の影を浮べて答えた。
「やっぱり……お金がほしかったのでしょう。」
「そんなに必要だったんですか。」
「どうですか、あたしには分りませんけど……。」
「そんなに必要だったのなら、なぜ損ばかりしたんです。」
 敏子は返事をしないで、ほんとに微笑んでしまった。
「あんなに貧乏するって法はありません。穏かに暮していけたのに、わざわざ貧乏するということがありますか。母親や……妹がある以上は、そして、結婚までした以上は、子供まで拵えた以上は……じっとしておればいいんです。それを、あんな風に、何もかもめちゃくちゃにして、犬のような眼付をしてうろつきまわって、人につきまとって……。」
 坂田はふいに口を噤んだ。敏子は急に頬をこわばらせ、眼を大きく見開いた。
「では……あの、あれからもまた、お願いにまいったことがありますの。」
 坂田は返事をしなかった。暫くたって、呼鈴に手をふれて、女中をよんで珈琲を命じた。
 それは何だか、話をぶち切る相図のようなものだった。敏子は黙って、かたくなっていた。その眼はうるんでいた。
 坂田は珈琲をすすって、室の中を歩きだした。腹を立ててる様子だった。考えこんでる様子でもあった。やがて、その眼が異様に輝いてきた。彼は屑籠のところにいって、その中をかき廻して、引裂いた敏子の手紙を取出してきた。
「これは、今日あなたから来た速達の手紙です。この通り引裂いて捨てました。あなたが私の……あれを引裂かれたのと、丁度帳消しです。これで、私達は対等に御話が出来るわけです。」
 敏子は顔色をかえ、唇をかみしめて、坂田を見つめていた。坂田は紙片をまるめてまた屑籠に放りこみ、椅子に腰を下した。
「そこで……何の御用ですか。」
 おかしなことには、それまで、敏子の方でも坂田の方でも、まるで用件を忘れてたかのような風だった。だが、それより先に、引裂く云々の一件を説明しておこう。――中津が方々の負債にせめられて、どうにもならなくなった時、そしてなお、自棄《やけ》気味の放蕩から会社も止めなければならなくなり、家には細君の産後の病気もあり、切端つまって、坂田に相談をもちかけてきた時、坂田はそれを引受けてやった。そして負債全部をすまして、今後相場などには手を出さないという条件で、一万七千円の小切手を書いて渡した。中津は今後のことを誓った。そして心から感謝して、それを妹の敏子へも打明けた。敏子は顔色をかえた。彼女はその頃、生活の苦しい余りに、自ら進んで、或るデパートに勤めていた。ところが、ふとしたことから、そのデパートの朋輩の一人を、坂田が誘惑して弄んだことを知っていた。甘言で誘って、どこかに連れこんで手籠めにしたとか、其の後問題になりかかったのを、デパートの支配人に手を廻してうやむやに葬ったとか、事の真相は茲に明かすべき限りでないが、とにかく金銭を以て非道を行ったとの話である。その上、敏子と坂田との間にも何か感情上のもつれがあったらしく、後になって想像される。要するに敏子はひどく憤慨した。デパートにまで出勤している自分の立場を説き、兄を責め、坂田を罵り、坂田の小切手を引裂いてしまったのである。中津は意外の結果に呆然とした。そしてどうにか敏子をなだめ、引裂かれた小切手の破片を持って、坂田に詫びに来た。事情を隠すわけにもいかなかった。坂田は小切手を書きなおして与えた。そして云った。「僕は弁解はしないが、その事件についてはいろいろ誤解もあるようだ。然し、敏子さんの方が恐らく正しいかも知れない。」それきりで、彼はもうその問題にふれたくない様子だった。というよりも寧ろ、そんなことは些事で、もっと重大な問題が彼の心に浮んできたらしい様子だった。

 坂田は椅子に深く身を托して、返事を待っていた。敏子は彼の顔を見つめたまま黙っていた。
「どういう御用ですか。」と坂田はくり返した。
 敏子の眼には苦悩の色が浮んだ。それをじっともち堪えているうち、彼女の顔は冷くそして美しく輝いてきた。彼女は兄と十二三も年齢がちがい、その間の二人の姉も、一人は結婚し一人は夭折していたが、彼女よりずっと年上だったせいか、彼女のうちにはのんびりした我儘さが残っていて、それが理知的な色に包まれ、更に苦悩の色にそめられると、新鮮な美しさを現わすのだった。そしてまた顔立も、肩が少しくいかついわりに細そりしていて、人中にいる時よりも一人になるほど目立ってく
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