るたちで、切れの短くて深い眼や口が、緊張するに随ってくっきりと浮出してくるのだった。坂田はまともにじっと彼女の顔を見返した。
彼女は慴えたように眼をそらした。
「もう……申さなくてもよろしいんです。」
「云うのが恐いんですか。」
「あなたは……軽蔑して……ばかにしていらっしゃるのでしょう。分りましたわ。ずうずうしい女だと思っていらっしゃるのでしょう。よく分りました。」
彼女はふいに、涙をぽろりと落した。そしてそれに自ら反抗するように、声を震わして云い進んだ。
「よく分りました。だけど……だけど、あたしそんなつもりじゃなかったんです。兄はあんなだし、嫂さんはあんなだし、病気のお母さんがお気の毒で……お母さんのためになら、二百円くらい……あなたにとっては何でもないお金高だから……お願いしてもいいと思ったんですの。だけど、もういいんです。あたしの思い違いだってこと、よく分りました。もう決して……お願い致しません。軽蔑していらっしゃるんなら、それを……お返ししておきます。」
坂田は腕をくんで考えこんでいた。彼女の言葉を聞いていたのかいないのか、長く黙りこんでしまった。それからふいに、立上って歩きだした。そしてぽつりと、石でも投げるように云った。
「あなたはそれでよく我慢が出来ますね。」
敏子はちらっと彼の方を見たが、彼の言葉は通じなかったらしく、また顔を伏せて唇をかんだ。
坂田は歩きながら、独語の調子で云いだした。
「私にはよくこういうことがあります。カフェーだとか、レストーランだとか、表に硝子戸がたっていて、そこから往来が見える……そういうところにじっとしているのが好きで、そして往来を見ていると、いろいろな人が通るんです。菓子屋で幾銭かの菓子を買って、その紙袋を風呂敷に包んで、大事そうに抱えて行くお上さんがあります。が一体、なぜそんな物を食わなけりゃならないんですか。大きな荷物を背負って、自転車にのって走ってゆく小僧があります。なぜそんな荷物を背負っていかなけりゃならないんですか。危っかしいハイヒールの靴をはいて、つんとすまして、とっとっと急いでゆく若い女があります。なぜそんな物をはいてそんなに急がなけりゃならないんですか。そして……あなたは、お母さんのために、家のために、二百円の金を調達に、嫌な思いをして私のところに来たんでしょう。なぜそんなことをしなけりゃならないんですか。あなたが、なぜそんなことをしなけりゃならないんですか。……これは、子供じみた、ばかげた、下らない思想です。けれど、そういう思想のために、人間が嫌になり、世の中が嫌になったとしたら、どうです。そして何かしらがーんとぶつかるもの……抵抗、そう抵抗です、それを求めて、酒をのんだり……芸者をくどいたり、デパートの売子《うりこ》を誘惑したり、そんなことをする男があったら、どう思います。而も……抵抗、そんなものがどこにあります。女は大抵売笑掃であり、男は大抵犬みたいな眼付をしていて、何事も金で解決出来るとしたら、どうなります。そして家に引込んで、何もかも嫌になって、始終うとうと居睡りをしてるとしたら、どうなんです。……私はそんな男です。あなたは軽蔑しませんか。しないというのは嘘です。軽蔑するでしょう。」
坂田は立止って、じっと敏子の方を眺めた。眼の光がへんにうすらいで、本当に見てるのかどうか分らない工合だった。敏子はかるく身震いをした。坂田はまた歩きだした。
「ところが、そんなのが、幸福……幸運というもののせいだったら、どうでしょう。中津君はすっかり相場で外れたが、私はすっかりあたった。運がよかった。そして金が出来た。というのは数字がふえたんです。架空の数字が……。そしてその架空の数字が、人を宙に浮上げる、というより、崖っぷちに押しやる。高い断崖のふちです。……そんな時、その下らない男を、崖からつき落す……つき落してしまおうとは、あなたは思いませんか。」
敏子はけげんそうに坂田を見た。
「そいつを、殺してしまおうとは思いませんか。」
「いいえ。」
きっぱりした一言だったが、殆んど本能的に出たもので、敏子はそれを他人の声ででもあるように聞いたらしく、明かにまごついて……そして突然赧くなった。
「なぜ殺さないんです。」
「自分では殺しません。」
「自分で殺さない……。」
「誰かに殺させます。」
その咄嗟の問答を、二人はじっと眼を見合せながらなしたのだが、それからなお暫く、そのまま釘付けになっていた……。敏子は身を引いた。坂田はよろけるように椅子に坐った。
坂田は椅子の上で、眼をつぶった。彼の頬は全く血の気がないといってもいいほど蒼かった。
敏子は二度ばかり、立ち上りかけてはまた腰を下した。それから室内を、その家具や装飾品を一つ一つ、はっきり心にとめるためのように眺め初めた。そして彼女がまた、煖炉棚の上の人形を見ている時、坂田は眼を開いた。
「敏子さん。」そう彼は呼んで、ちょっと間をおいた。「あなたが、子供の時から今までの間に、一番嬉しいと思ったことか、悲しいと思ったことか、どちらでもいいから、聞かして下さい。」
敏子は黙っていた。
「何でもいいんです。心に残ってることを、一つだけでいいんです。」
彼は両腕をくみ、また眼をつぶって、深々と椅子によりかかって、待った。
敏子はだしぬけに、そして静かな調子で、身動き一つしないで話しだした。
「……あたしには、母の乳が足りなかったものですから、乳母がありました。その乳母が、あたしの六つか七つの時まで、小学校にあがる前まで、家にいて、そして暇《ひま》をとって帰っていきました。その時、大変悲しかった筈ですけれど、よく覚えていません。そして……一月ばかりたってから、その乳母がたずねてきてくれました。嬉しいような極りわるいような妙な気持でした。乳母は母と話したり、台所を手伝ったりしていましたが、早めに、あたしたちと一緒に夕御飯をいただいて、それから、あたしだけつれて、河の土手に遊びに出かけました。町のすぐそばの河なんです。夏のことで、まだ明るくて、水の面《おもて》に小魚がはねてるのが見えました。乳母はあたしを土手の草の上に坐らせ、自分もすぐそばに坐って、長い間だまっていました。あたしは歌をうたっていましたが、それにもあきて、乳母を見ると、乳母の頬に涙が流れているんです。ばあや、なぜ泣くの、とききますと、こんどはほんとに声をたてて、あたしの肩をだいて泣きだしたんです。あたしもなんだか悲しくなって、涙ぐんでいますと、乳母はじっとあたしの顔を見て、それから、お嬢さま、わるいことをしました。お許し下さいと、頭をさげるんです。あたしには何のことかさっぱり分りません。お許し下さいますかって、なんどもきかれて、あたしはただ、なんでも許してあげる、と云いましたの。すると、乳母はほっと太い息をついて、それから、手にもっている小さな風呂敷包みを……その時まであたしは気にもとめていませんでしたが……その包みを開きました。中はまた、新聞紙包みになっています。その新聞紙をとると……あらッとあたしは声をたてました。あたしの着物……大きな赤い牡丹のついた、友禅模様の金紗の袷です。乳母はそれをあたしの膝の上において、あやまるんですの。お嬢さまに別れるのがつらいから、悪いことと知りながら、このお着物を盗んで持って帰りました。お願いすれば下さることは分っていましたが、なんだか申しにくくって、だまって盗んでいきました。けれど、あとで心に咎めて、どんなにか泣きました。そして今日、お返しにあがりました、盗んだことをお嬢さまにだけ打明けて、罪を許していただくつもりです、お許し下さいませ……とそうなんです。あたしは乳母の首にとびつきました。そしてその着物をあげるといいました。けれど、乳母は受取ろうとしません。罪を許していただくためにお打明けしたので、お着物を頂戴するためではありません、といってきかないんです。でもとうとう、あたしは駄々をこねて、その着物を乳母に受取らせました。乳母はまた丁寧に、新聞紙に包み、風呂敷に包みました。夕日がもう沈んで、ぼーっとした明るさでしたけれど、乳母の顔はとても晴れやかでした。あたしは乳母の手につかまって家に帰っていきました。その時のことが、いつまでも忘れられませんの……。」
敏子は口を噤んでからも、身動きもしないで、眼を室の隅に据えていた。顔は冷たく澄んで何の表情もなかった。坂田からじっと見られてることに無関心らしかった。
坂田の眼はぎらぎら光っていた。頬には赤みがさしていた。彼は話をよく聞いていなかったらしい。何かに反抗するように身振をした。暫くして立上ると、敏子を見つめたまま一二歩近づいた。
「そんな話はもうやめましょう。然し……。」
彼は躊躇した。
「あなたを……愛していたのは本当です……今でも。」
それは愛するのか憎むのか分らない調子で、そして敏子がかすかにおののいた時には、彼はもう敏子の肩に身をなげかけてそこに顔を伏せていた。敏子は彼を押しのけようとしたが、次の瞬間、眼をとじて、彼の頭を抱きしめた……。
俺は、ただじっと見ているより外はなかったのだ。二人の応対がばかに真剣だったので、俺が差出口をする隙がなかったし、なお、俺にはよく腑におちない複雑なものが底に隠れていた。それから、その夜の二人のことについては云うべき限りではないだろう。ただ、俺の予想が全く外れたのは、翌日の坂田のことだ。
翌朝、四時半頃に、坂田と敏子とは、前夜から開け放しの窓にもたれて外を眺めていた。もう東の空は明るくなって、中天の星は淡くまたたいていた。敏子の髪が乱れ、顔が蒼ざめていたが、坂田は髪こそ乱しているが、晴れやかなすがすがしい顔で、眼差しに力がこもっていた。
二人は東の空の明るみを見ながら、それに眺め入ってる様子をしながら、手を握りあっていた。やがて敏子は力つきたかのように、静に頭を坂田の肩にもたせかけた。坂田は彼女を長椅子につれていった。そしてそこで、互によりかかって、肩と肩とを抱きあいながら眼をつぶった。
彼等はそうして眠ったのかどうか、実際判断がつかなかった。時々、どちらかがうっすらと眼を開いてはまたつぶった。二三十分おきくらいにそうするのだった。
六時頃、日の光がさしてきてから、二人は立上った。曖昧な微笑をかわして、それきり眼をそらした。坂田の一本の櫛で、二人とも髪をなでつけた。敏子は室の中を見廻し、隣室の中まで見廻した。それから二人そろって出ていった。
一時間余りたって、坂田は一人で戻ってきた。まだ女中たちも寝ていた。坂田は大きく伸びをして、それから、ぐるぐる室の中を歩きだした。ふしぎに顔の色艶が、どこか不健康なものを含みながら、輝きだしていた。殆んど一時間くらい彼は歩いていた。ただ機械的に無意識に歩いているようだった。精神的にじっとしておれないが、然し何も考えてはいない、という様子だった。それからふと立止って、小首を傾げたが、つかつかと机に歩み寄って、例の帳簿を取出し、眼もくれずに引裂き初めた。――どうやら、俺の計画はだめになったらしい。俺は例の鉄の五重塔の中に引込んで、新たに考えなおさなければならなかった。然し、俺は坂田を嫌いじゃない。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
1936(昭和11)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年4月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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