ざいませんでしょうか。」と敏子は低い声で云った。
「いえ、かまいません。」
 そして坂田は煙草をふかし、敏子はそれとなく室の中をうかがっていた。室の有様が彼女の想像とはまるで違っていたらしく、そちらに気をとられていた。坂田は煙草の煙の間から、彼女の無雑作な束髪や紫地に太縞のお召銘仙の着物を、ぼんやり眺めていた。彼女は自然の姿態で顔をそむけて、横手の煖炉棚の上の人形に眼をとめ、こわばった微笑が頬に浮びかけた。
「中津君に……お兄さんに、昨晩あいましたよ。」と坂田はふいに云った。
 敏子は明かにぎくりとして、そして初めて彼の顔をまともにじっと見た。意外な衝動を受けて、それが却って彼女の心を緊張させ、彼女を力づけ落着かしたらしかった。
「少しも聞きませんでしたが……どちらで……。」
「中津君はあなたに何とも云わなかったんですか。」
「ええ。昨晩……兄が戻りました時は、あたしはもう寝ていましたし、今朝は……。」
「兄さんの方が寝坊していたんでしょう。昨晩、ずいぶん酔ってましたから……。」
 そして坂田はへんに憂欝な表情になった。
「もう遅かったようです。酒に酔って、銀座裏を歩いていて、ちょっと
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