ろ、実質的なものにしろ……。」
「初めからありゃあしませんよ。」
「初めからあったんだ。」
 とうとう水掛論になってしまった。こうなると、俺は黙りこむ方がいいんだ。
 坂田は深い瞑想に沈んでるようだったが、ふと立上って、室の中を少し歩き廻り、それから帳簿をしまいこみ、長椅子にねそべって、また瞑想に沈んだ。

 中津敏子がやって来たのは、晩の八時すぎだった。坂田は長椅子に身を投げ出して、深い物思いに沈んでいた。頬に血の色がなく、眼差しには薄い幕でも垂れてるような工合だった。彼は敏子の名刺を見ても咄嗟には思い出せない様子だった。それから女中を呼びとめて、座敷の方でなくこちらに通してよいと云った。
 敏子ははいって来ると、お時儀をしてからそこに立止った。引きしまった頬にぽっと上気して、理知的な眼を伏せていた。それを坂田はじっと見やったが、予期していた人とは別な人をでも見るような眼付だった。不自然なほど長く、十秒ほどもかかって、漸く、眼の映像と意識とが会った時、坂田の頬にぱっと赤みがさした。がそれは次の瞬間に消えて、彼は中央の円卓に自らつき、その向うに敏子を招じていた。
「あの……お邪魔ではご
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