、或る小さな飲み屋にはいると、中津君が、これも一人で、飲んでいました。それから二人ともほんとに酔っ払って、大に談じて、何が何やら分らなくなったんですが……とにかく、元気でした。」
 坂田の憂欝な表情はなお深まっていた。
「兄は、その時、何か申しておりましたか。」
「別にまとまったこともなく、二人でやたらに饒舌りちらしただけですが……。」
 敏子はじっと探るように坂田の顔を見ていた。
「あなたは、兄をどう御覧になりまして。」
「どうといって、人間はそう急に変るものじゃありませんよ。変るのは境遇だけです。中津君もこの頃は、たいへん朗かになって、前途に光明を認めてるようですね。昨晩はきき落したんですが、どこか、勤めるようにでもなったんですか。」
 そして彼は苦笑をもらした。
 俺はその会話を、煖炉の上の好きな場所、例の古い鉄の五重塔の中から、ぼんやり聞いていたのだが、余りに白々しい坂田の言葉だと思った。殊にその苦笑はいけなかった。
「ちがいます。」と敏子も叫んだ。「あなたの仰言ってることは、みんな嘘です。」
 全くそれは嘘なんだ。俺は昨晩一緒にいたからよく知っているが、中津はあの時、肱に繕いのある上衣をつけ、裾のすりきれたズボンをはき、顔も肉がおちて、胃病でも患ってるらしい色艶だった。坂田がはいっていくと、ぎょっとしたような様子で、それから慌てて立上ってお時儀をした。そして二人で飲みだしたのだが、中津はしきりに、そういう家に寄った理由を説明しだした。弁解のための説明らしかった。この頃酒とは縁遠くなっていたが、友人たちとの或る会合のあとで、久しぶりに来てみたのだとか、或る相談事のためにここで人と落合うことになったのだとか、要するに下らないことで、而も、禁酒を誓った相手にでも云うような調子だった。それから話は一転して、一般の景気のこと、就職難のこと、米穀の価格のこと、米穀統制法のことなどに及んだ。坂田はぼんやり耳をかしてるだけだった。坂田が立上ると、中津も同じく立上ってついてきた。二人はまたとあるバーにはいり、洋酒をのみ、次には鮨屋にはいった。中津は次第に精力的になっていた。政府の施設は悉く民衆を看板にしながら悉く民衆を裏切ってるとも云った。僕もこれから発奮して民衆のために戦ってやるとも云った。或る金持の道楽息子が殊に目をつけて、結婚したいとまで云ってるが、出過ぎたことをした
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