ら殴りつけてやるつもりだとも云った。妹が……あの小切手を引裂いたのは道理だとも云った。「僕はたとえ落伍者であっても、男の意気地は失わないつもりだ。そしてブールジョアの利己心を唾棄するだけの覚悟は、常にある。妹が君のあの小切手を引裂いた心理が、僕にはよく分る。だが君には感謝しているんだよ。全く肝に銘じている。僕はただ一般的のことを云うんだ。妹のあの意気を云うんだ。妹もあとで誤解だったことは分ったらしい。だが、一般的に……一般的にだよ、僕たちは、僕も妹も……ブールジョアは嫌いだ。君をもその点でだけは嫌いだ。もうあんな……不徳義な真似はしないんだろうね。一体、人間の身体を金で買えるものだと思うか。大間違いだ。僕たちが反抗するのは、ただその点だ……。」そんなことを彼はくり返し饒舌りたて、次には、妹の健気な気性をほめ、次には、母親の病気のことや、幼児をかかえてるひ弱な妻のことなど、困窮な家庭生活の内面を曝露するのだった。
 鮨屋から出て、もう人通りもとだえがちな街路で、坂田はきっぱり立止って、中津に十円紙幣を二枚さしつけた。中津はきょとんとしていた。
「取っておけよ。あれからまた一二度借りに来たじゃないか。今日はいらないのかい。もう僕は酒はのめない。これは残りのおつりだよ。」
 中津はふらふらしながら、黙って金を受取った。
 中津をそこに置いて、坂田はさっさと歩きだした。「犬のような眼をして、どこまでもついて来やがる。」そう口の中で云って、それから何度かまた繰返したが、ふしぎに、頬に一筋涙を流していた……。
 それらのことも、すっかり酔っていた彼等二人にとっては、濃霧の中での出来事に過ぎなかったかも知れないが、然し、敏子に対する坂田の言葉は、あまりに白々しすぎるものだった。
「仰言ってることは嘘です。」と敏子は云った。「兄はもう救われなくなってるのかも知れません。毎晩のようにお酒に酔って帰ってきます。それに、あれですっかり整理がついたと思っていましたが、まだいくらか残っていたようですし、なおちょいちょい相場にも手を出して、新たな借金もこさえたようですの。そしてこの頃では、蠣殼町へんをうろついて合百とかいうようなものをやってる様子ですの。なんでも、二三円あれば出来るものとかききましたが……そして、そんなことをするのは、乞食も同様だそうですけれど……。」
 彼女は真赤になってそし
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