するからには、作意が主で技法はどうでもよいことであるからして、吉村がそれに加筆したならば恐らくこういうものになったろうかと、その結果のものを持出すのである。
 題は「おやじ」というのである。

「おやじ」とは周囲の者たちがつけた綽名だ。――四十歳あまりの男で、頭髪はまだ色濃くて硬いが、謂わば丈夫な毛並をむりに間引かれたようで数少く、若い時は美男だったろうと思われる細長い顔立には、生活の混濁を示すたるみが深く現われ、眼だけがへんに生気を帯びている。季節ものではあるが如何にも古ぼけた帽子、すりへらした駒下駄、よれよれの銘仙の着物、そして髯はきれいに剃っていた。
 いつもの飲み屋で、酔っ払った上になお飲んでる時、十七八歳の、商店員らしいきりっとした身扮の、律儀らしい若者がやって来て、いきなり彼を引張って行こうとした。
「な、なに……死んだ!」
 声の調子だけは喫驚しているが、若者の顔を見つめたまま腰は落着いて、手から盃を離さなかった。
 若者は急ぎたてていた。
「だからさ、早く行かなきゃいけないんだよ。ふだん御恩になってるし、僕の顔もたたないよ。母さんはもう行ってるよ。」
「そこで……俺の仕度は……。」
「ちゃんとしてあるよ、家に……。さあ、父さん、行くんだよ。」
「うむ、いよいよ駄目だったかな。」
 まだ若者の顔を見つめたまま、彼の顔は一瞬間、筋力の力が失せたかのようにとほうもなくたるんで、それからこんどは急に硬ばった。
「じゃあ、行くかな。」
 考えこんだ調子で、でもすぐに立上って、皆に挨拶もせず勘定も払わず、若者に手を引かれて出て行ってしまった。
 そのことが、一同を驚かした。誰が死んだか、どんな関係の者が死んだか、そんなのはこの飲み屋にいる一同にとってどうでもよいことだったが、彼にあんな律儀そうな息子が――彼を「父さん」と呼ぶ立派な息子が――あろうとは、誰にも思いがけなかったのだ。
 日が暮れて、外が暗く家の中が明るくなり、更にその明暗の度が強く感ぜらるる頃になってから、どこからともなく集ってくる連中だ。始終一緒になる常連の間でも、誰がどこに住んでるか、どんな生活をしているか、ばかりでなく、お互の名前さえ、よくは分らず、濛とした酒気と煙草の煙のなかで、ただお互の顔付だけが符牒だ。その、彼の符牒に、あの若者の息子はどうもつかなかった。
 ――本当の息子だろうか?
 人相といい言葉の調子といい、たしかに本当の息子らしかった。
「それにしても、ばかに早く子供を拵えたもんだな。」
 首を傾げて、看板書きの画工が、さも感心したように大声で云ったので、連れの浮浪青年が笑いだした。
「何もおかしいこたあねえ。」
 笑い声におっかぶせて、これも常連の、印半纒の男が、自信ある調子で云いだした。
「誰だって、遅かれ早かれ、一度は親父になるんだ。俺だって親父だよ。もっとも、まだちっちゃな奴の親父だが……。」
 浮浪青年はまた笑った。
「おやじに……おやじに……おやじか……。」
 親父ということが、どうして急に可笑しなものとなったのか、誰にも分りはしない。一合二十銭の安酒のせいか、バットの煙のせいか、言葉の調子のせいか、いずれ、ほんの僅かなそして微妙なきっかけだ。それで可笑しくなって、陽気になった。印半纒自身も笑いだして、青年に盃を差しつけた。
「小僧さん、飲めよ。」
「親父さん、飲めよ。」
 だがそれはもう、印半纒と浮浪ではなくて、彼等のそして皆の肚の中では、そこにいない彼とその息子とのことだった。
 そうして彼は「おやじ」になったのだが、変なことから、その綽名がなお強調された。
 常連のなかに、三十六七歳の独身者がいた。自分では独身主義だと云っているが、実は主義というほどのものではなく、生活的なあらゆる事柄に対して卑怯で、放蕩と飲酒とのうちに身をもちくずしてる男だった。いつも旧式な鳥打帽をかぶってるので「とりうち」として通っていた。
 その「とりうち」が、或る時「おやじ」と落合って、いい加減に酔が廻った頃、いやに丁寧な様子で「おやじ」に盃をさした。
「あなたに、ああいう立派な息子さんがあろうとは意外でした。仕合せですなあ。ひとつ受けて下さい。息子さんと……親父さんとの、健康を祝して……。」
「おやじ」はぎろりと眼を光らしたが、その反応が自分の胸にきたらしく、それをごまかすかのようにやけに手を振って、これも丁寧に云った。
「いや、そいつあ、まあ……どうか……。」
 そしてぷつりと云った。
「止しましょう。」
「なぜですか。」と「とりうち」は問いつめた。
 その時の「おやじ」の様子はおかしかった。「とりうち」に答え返すつもりか、また独語か、何やら口の中でぶつぶつ云っていたが、ひょいと手の甲で眼をこすって、それからじっと相手を見つめた。
「わたしはど
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