知ってるのを、李は訝りもせず、素直に答えた。
「学校にいる間に、いろいろなこと勉強したいんです。」
「沢山講義を聴いてるのかい。」
「講義ではありません。植字とか、編輯とか、校正とか、研究してみました。」
そして彼は、或る小さな印刷所に手伝いに行ったこと、或る同人雑誌の編輯を手伝ったこと、或る知人の校正をさせてもらったことなどを話した。但しこの最後のものは失敗だった。面白くないものは校正も嫌気がさし、面白いものになると、校正はせずにただ読んでしまうのだった。
「だって君、そんなことは、学校を出てからだってやれるだろう。」と矢杉は云った。
「やれますけれど、学校を卒業すると、学費が貰えません。」
「学費が……それじゃあ、誰からか補助でも受けてるのかい。」
「父がいませんから、伯父から貰っています。」
「伯父さんなら、卒業してからでも、生活費を助けてもらえるだろう。」
「それはいけません。卒業すれば、働かねばなりません、働くとなると、勉強する時間がなくなります。」
「すると、伯父さんは、学部が三年で卒業出来ることを、知らないのかい。」
「知っています。」
「そして、早く卒業しろと云わないのかい。」
「希望しているでしょう。然し、いろいろ勉強した方がよいことも、よく知っています。」
「君の話はよく分らんよ。伯父さんにそれだけ理解があるなら、早く卒業した方が……授業料だけでも無くて済むじゃないか。」
「然し、卒業すれば、働かねばなりません。」
「学校にいるつもりで、勉強だけすればいいじゃないか。」
「そういきません、道徳の問題です。」
「道徳……そんな道徳があるもんか。卒業出来るのを、いつまでもぐずついてるのは、伯父さんに対してなお不道徳だろう。」
「私自身の道徳です。卒業して働かないのは、不道徳です。」
「学校にわざわざぐずついているのは、君の言葉で、不道徳じゃないのかい。」
「不道徳とは思いません。勉強のためです。その上、学校にいる方が、信用されます。」
「信用……何の信用だい。」
「世間の信用です。先生でも、学生の私なら、信用なさるでしょう。下宿屋とか、アパートとか、印刷屋でも、学生なら信用します。卒業して働かないと、いくら勉強してると云っても信用しません。」
「然し君、信用というものは、身分に対するものじゃなくて、人間に対するものだろう。」
「そう思います。」
「そんなら、君の話は分らんよ。」
「世間が分らないんでしょう。」
「そうも云えるが……。」
矢杉は口を噤んだ。何やら腑におちるようなおちないようなものの中から、李の一面にはっきり触れた気がしたのだった。李の在学理由、故意に引延された在学の理由は、要するに、彼一己の道徳と対世間的策略との二つに依るものらしい。前者には、一種の自己偽瞞の気味があるが、その底に何か他のものが潜んでいるらしい。後者には、半島出身者の苦渋が見えるが、然し一般に云っても恐らく当ることであろう。そしてこの両者を合せ考える時、李の人柄のうちに或る恐ろしいものが浮んでくるようであった。然し矢杉にはそれがまだはっきり掴めなかった。ただ李のてきぱきした率直な言葉のなかに、彼の思想の力というようなものを感じた。そして、彼の顔から眼を外らして、沈思の気持に誘われるのだった。
お茶の水駅東口に来ると、矢杉は電車に乗るために別れようとした。その二三歩あとから、李に呼びとめられた。
「先生、吉村さんへ御紹介して下さいませんか。」
そのことを矢杉はもう忘れていた。紹介するなら手紙でも書いてやろうかと思ったが、それを止めて、聖橋の欄干の上で、名刺に簡単な文句を書きつけて、李に渡した。
二
李永泰は矢杉の名刺紹介で、吉村を訪れて来た。別に文学や文章に関する問題を提出するでもなく、ありふれた雑談だけで、而も多くは、吉村から聞かれるままに朝鮮の話などをし、一時間ばかりで帰っていった。ただ漠然たる興味で、吉村という存在を眺めただけのようだった。
それから時々、彼は吉村を訪れて来た。仕事中だと、不服らしい眼色もせず、にこにこして帰っていった。隙な時には、一時間ばかり雑談していった。そして如何なる雑談の折にも、彼がはっきりした断定の言葉を吐露するのを、吉村は見落さず、次第に好感がもてるようになった。
二ヶ月ばかりたった頃であったろうか、彼は数枚の原稿を持って来た。吉村はその短いものを、彼の前で読んでみようとした。
「お預けしておきます。あとで読んでみて下さい。」と李は云った。
その言葉が、平素の李には不似合なので、吉村は却って好奇心を起した。
李の原稿というのは、小説とも小品ともつかないもので、筆致にも精粗のむらがあり、文章にも所々怪しいところがあったが、大体次のようなものである。――尤も、茲に掲出
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