んな盃でも受ける。だが、息子の名前の出た盃は受けません。親父だけならいつでも受けるが……。」
「これはおかしい。」と「とりうち」もへんに意気ごんできた。
「親父は息子あっての親父で、息子は親父あっての息子だ、息子なしの親父なんて、そんな半端なことはない。」
「ところがある。」
 と怒鳴るように云って、彼は「とりうち」の腕を捉えた。
「わたしは、こんなところに、こんな飲んだくれの間に、決して息子を引入れやしない。心に誓ってるんだ。分りますか。分るでしょう。ここに来るのは、わたし一人だ。こないだは、急に死人があったんで、息子が来たが……。後でわたしは叱ってやった。あやまっていたっけ……。正直な若者だ。それに親孝行だ。これからはもう決して、こんなところに足踏みはさせない。これまで生きてきたお蔭で、わたしにも相当世の中のことが分ってきた。恐ろしいのは習慣というやつです。」
 そうなると、一座は黙りこんでしいんとなった。それがなお彼の饒舌を煽った。酔っ払いの早口と飛躍的な連想とで卓子を打叩かんばかりの勢だった。その後の議論を、茲に要約すれば――。
 世の中の害悪はただ習慣だけだ。習慣だけが人をずるずる引崩す。習慣でないものは、凡て新鮮で、何等かの意義を持っている。習慣のうちでも、最も恐ろしいのは飲酒と喫煙だ。それは常住不断の習慣――中毒にまで立至る習慣――になり得るからだ。所有慾や色慾……窃盗や放蕩も、常習になって初めて害悪で、発作的なのは潔白と云ってもいい。殺人などでさえも、発作的なものであるから、それ自体として、多くは潔白なものだ。恋愛が害悪でない所以は、それが習慣になり得ないからだ。恋愛と習慣とは両立しない。だから恋愛はいつまでも害悪とならない。然し放蕩の方は、習慣になり易い。だから放蕩は害悪となる。最も習慣になり易いものは飲酒だ。だから飲酒は恐ろしい害悪となる。
 こうした支離滅裂なことを、而もどこかに一貫した筋途のあることを、彼はしきりに饒舌りながら酒を飲み、酒を飲みながら饒舌りたてた。
「わたしはもう駄目だ。こう癖がついちまっちゃあ、いくら酒を止めろたって、そりゃあ無理だ。うちの者たちは、それがよく分ってくれる。有難いものだ。早くに子供を拵えたお蔭だと、わたしは思ってる。有難いことだ。だが、息子だけには、同じ途を歩かせたくない。だからさ、ここでは、わたし一人だ。全く、親父だけだ。」
 そして「おやじ」が熱すれば熱するほど、独身主義の「とりうち」は益々冷やかになっていった。
「それじゃあ、一層のこと、その厄介な息子も何も捨てちまって、独り身になって、吾々の仲間にはいったらどうです。気楽ですぜ。」
「おやじ」は何とも答えないで、水を浴びたように口を噤み、相手の顔を見据えた。それから、ふらふらと立上って、土間を、黝ずんだ木卓の間をぬって、帳場の方へ行き、空のビール瓶を一本取って来た。足元は危なげにふらついていたが、どかりと元の席に腰を下す拍子に、ビール瓶を卓子の上に立てた。
「わたしは議論はしない。この瓶が証拠だ。わたしの云ったことに間違いはない。わたしは誓いを守る。親父としての誓いを守るんだ。いよいよの時には、わたしにもどれほどの力があるか、この瓶が証拠だ。」
 見ていた連中は微笑を浮べた。それは彼のいつもの癖だった。したたか酔ってくると、何かの調子に空のビール瓶を持出した。
 いつのことか、彼は朝鮮人の喧嘩を見たことがあった。二人で何か云い争ってるうちに、一人が立上って、卓子の上の空のビール瓶を取るが早いか、相手の脳天めがけてすぱーりといった。どうした呼吸があったのか、ビール瓶は壊れもせず、相手は頭蓋骨が真二つになってぶっ倒れた、というのだ。
「また始まったぞ。」
 片隅の浮浪青年は呟いて、それから声を高めた。
「よう、おやじさん、頼んますぜ。実地にひとつ、すぱーり、きれいにやって貰いたいな。」
「よろしい、相手さいあれば、いつでもやるよ。手練ものだ。」
 本当にビール瓶を振上げて、腰掛けたまま身構えの様子で、すぱーりと、打下してみせた……。とたんに、激しい物音と共に、一同は飛上った。ビール瓶が彼の手からすべり脱けて、土間に砕け散ったのだ。
 側の「とりうち」よりも、彼自身の方が更に仰天して、そしてぽかんとしていた。
「新発明だ。」と浮浪青年は叫んだ。「空のビール瓶が、爆弾の代りをするたあ思わなかった。おやじさん、威勢よくひとついこう。」
 それをきっかけに、「おやじ」のところへ四方から盃が差出された。「おやじ」は初め蒼くなってたのが、こんどは真赤になり、それから本当に親父らしく得意げに、それらの盃を受けた。

       三

 李はだいぶ長く間をおいて、吉村を訪れて来た。
「あの原稿どうだったでしょうか。」
 先般の逃避
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