的な態度にも似ず、いきなりそう尋ねかけてきた。
吉村は笑みを浮べ、「おやじ」一篇の印象を頭の中に模索しながら、ありのまま答えた。
「大体面白いが、拵えごとが多すぎるようだね。」
「へえ、分りますか。」
「推察だよ。例えば、あの終りの方の、空のビール瓶のところなんか。」
「あれは、実際にあったことです。」
「そうかも知れないが、あの作品のなかでは、拵えごとに、或は借りものに、なってるようだね。」
「それはそうです。しめくくりがつかなかったから、ちょっと、借りてきたんです。」
「作品のなかで、それがばれちゃあいかんね。」
「分りました。それから外には……。」
「外には……そうだね、あのおやじさんの、道徳というか、思想というか、要約されてるところなんか……。」
「ああ、あれは私の思想を、ちょっとぼかしたんです。」
「君の思想だって……。」
「そうです。」
そして李が語るところに依れば、あの飲み屋は、彼がちょいちょい立寄るおでん屋を潤色したものらしく、「おやじ」とも面識があり、殊にその息子とは懇意にしている。親子ともに或る大きな印刷会社の植字工で、両者の関係もあの通りであって、李はその父子の立場に特殊な興味を持ち、あのような思想を以て息子を励ましている。なお底をわって云えば、父親が息子を指導するのは普通のことであるが、酒飲みで仕様のない父親を息子が労わり、自分の労苦で父親の飲み代を補助し、ああいう思想で逆に父親を指導するということは、愉快ではないかと云うのだった。
「どういうことがあっても、例えば、大地震があっても、息子が戦争に出るようなことがあっても、あの酒飲みの父親と勤勉な息子と、二人とも、あれで救われるのではないでしょうか。」
言葉は率直で顔はにこにこしてる李の様子を、吉村は煙草の煙ごしに眺めながら、「おやじ」一篇に対する自分の読みの浅さに虚を衝かれた心地がした。だが、何かまだしっくりしないものがあった。
「そう、君の作意はよく分る。だが、それにしては、全体の何だか古めかしい感じは、どうしたんだろうね。」
「それなんです。私にも分らないのは。」
そして彼は、植字工の父親に銘仙の着物をきせたり、同職の息子を、ずっと年若くして律儀な商店員にしたりしたことが、自分でもひどく嫌だったと告白した。
「つまり、小説を書こうとしたんだね。」
「そうかも知れません。先生が小説家なもんですから。」
そして彼は無心なとも云えるような笑みを浮べた。
然るに突然、彼はぶしつけに云いだした。――あの原稿はもう不用だから、先生に差上げる。書きなおして使って下すってもよい。その代り、全く別なことだが、三十円かして下さい。至急入用があって、困っているので、助けて下さい。お手許になければ、雑誌社に手紙でも書いて下さい。使は自分がする……。
吉村はちょっと呆れ返った。
「そんなに急なことを云ったって、僕の貧乏なことくらい分ってるだろうじゃないか。」
「私は急ぐんですけれど……。」
「まあ二三日待ち給え、考えておこう。」
そんなことで、李は帰っていったが、三日後にまたやって来て、三十円の催促をした。
吉村は更に呆れて、もう二三日待てと云って帰した。
三日後に、李はまたやって来た。吉村も諦めて、幸いそれくらいの持合せはあったので出してやった。
李は子供のような喜びを顔に浮べて、帰っていった。
それから二十日間ばかり、李は姿を見せなかったが、或る夕方、威勢よくやって来て、是非とも一緒に食事をしに出かけてくれと頼むのだった。
「あの三十円はたいへん役に立ちました。先生に返したって、どうせ使ってしまうんでしょうから、お礼のつもりで、私に食事をおごらせて下さい。先生の好きなところで、余り高くないところなら、どこでもよいんです。」
吉村はもう李の本心を信じかねるような気持になっていたが、李があまりむきになって誘うので、散歩のつもりで外出した。
歩きながら、李はこんなことを云った。――あの三十円は、実は、例の「おやじ」の息子が、「おやじ」の新旧の飲み代に困ってるので、貸してやった。然し、考えてみると、ああいう思想は、金がかかって、貧乏人には困る。それかと云って、実践の裏打のない単なる抽象的な思想は、何等の価値もない。金のかからない実践可能な思想が必要なのだが、それが、見出せないのが悩みだ。そういうことから、いろいろ考えた末、自分自身の方も、もう大学部に五年間もいるんだから、今年きりで卒業してやろうかと思っている。学校にいる方が、いろいろ便利ではある。第一、先生にしたところが、自分が大学生だから三十円貸してくれたんで、学校を出てぶらぶら遊んでいたのでは、とても信用してくれなかったろう。然し、学校を出ても、伯父から多少の補助は受けられるし、自分でもいくらか
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