起させない。いつしか私は、有難うと言う言葉さえも心の中では忘れがちになった。
 いろいろな物が来た。魚肉や鷄肉や野菜は度々だった。缶詰や石鹸もあった。絹のハンケチは、私も少しもてあました。美しいウイスキーグラスは私の焼酎にはちと不向きだった。三味線の古い転手《ねじ》でわざわざ拵えさしたという象牙のパイプは、私の気に入った。純綿の単衣が、お寝間着にと届けられた時は、私はへんに惨めな気持ちになった。――私の方からは、何も彼女にしてやることがなく、時折、工事場から薪の束など持っていくぐらいなものだ。
 旦那の八杉の姿を、私は見たことがない。彼はごく稀に、ひそやかにやって来て、二三泊ほどしていくこともあるらしく、また、客を連れて来て深夜まで飲食し談合することもあるらしかった。彼も、また政代も、この土地では、なるべく人目につかないようにしているようだ。八杉は、軍部の嘗てのストック物資の不正取引に、なにか関係があるらしいと、沖本が私に囁たことがある。
 それでも、政代は人目につきやすかった。娘の三味線の手ほどきを頼まれて、数軒の家へ出稽古に行っていた。祭礼の演芸会に出てくれとも頼まれたが、それはき
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