たのであろうか。水をまた飲んだ。そして室を出た。それは奥の室だった。廊下伝いに台所の方へ行き、戸口の締りを探していると、はおった丹前の裾を引きずって政代が出てきた。
戸外の明るい陽光が、欄間の硝子からさしこんでいた。彼女は眩しそうな眼で、私の方を伏目がちに眺めた。その眼にまた深い陰が宿った。――私はふしぎにもその時、別な眼を思い起した。北京で、友人と同居して、あちらの女中を一人使っていたが、その家から引き払う時、前夜、私は酒に酔って、その女中の手を握った。彼女は何か考えるように、黙って眼を伏せていたが、やがてその眼に、深い陰が宿ってきたのだった。それが今、政代の眼にそっくり重なり合ったのだ。
「どうしたの。」
「もう帰ります。」
「御飯もたべないで。」
「今ほしくありません。」
「お酒は。」
「またあとで。」
なんと平凡なそしておずおずした再会だったろう。彼女は戸口を開けてくれ、私の手をかるく握った。私はそこにある。ぺしゃんこの[#「そこにある。ぺしゃんこの」はママ]下駄をつっかけて、外に出た。冷たい空気のなかに、朝日の光りが強く、目まいがした。
私の室は開け放しのままだった。布
前へ
次へ
全21ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング