、そろりそろりと、重病人のように歩いていると、通りかかった医者らしい人が、どうかしましたか、と聞く。いいえ、と頭を振っても、足を指して、怪我でもなすった様子だが、と押っ被せる。下駄の鼻緒が切れたんです。はあ左様か、用心なさい。けろりとして、行き過ぎてしまった。その後で、政代は急に腹が立ってきた。下駄をぬいで足袋はだしになり、すたすた歩いてきた。片手にお湯の道具の風呂敷包みをかかえ、片手に下駄をぶらさげ、足袋はだしで、息を切らして台所口を引き開けた、その姿は、どう見ても狂人じみていた。
 そのような話、私にはちと意外だった。
 まだありますよと、お留さんは話すのである。――或る時、荷物があって、人力車で帰って来た。御苦労さん、と言い捨てて家にあがった。だいぶたって、お留さんが何かの用で、玄関の方へでてみると、俥屋はそこで、蹴込みに腰かけて煙草を吸っている。なにも人の家の玄関先で客待ちをしなくても、とお留さんが小言を言うと、奥さんはもうでかけないのかね、と俥屋は怪訝そうだ。聞いてみると、まだ俥賃を貰っていないが、と言う。それを政代に伝えると、笑うどころか、ひどく不機嫌に黙りこんでしまった。
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