起させない。いつしか私は、有難うと言う言葉さえも心の中では忘れがちになった。
いろいろな物が来た。魚肉や鷄肉や野菜は度々だった。缶詰や石鹸もあった。絹のハンケチは、私も少しもてあました。美しいウイスキーグラスは私の焼酎にはちと不向きだった。三味線の古い転手《ねじ》でわざわざ拵えさしたという象牙のパイプは、私の気に入った。純綿の単衣が、お寝間着にと届けられた時は、私はへんに惨めな気持ちになった。――私の方からは、何も彼女にしてやることがなく、時折、工事場から薪の束など持っていくぐらいなものだ。
旦那の八杉の姿を、私は見たことがない。彼はごく稀に、ひそやかにやって来て、二三泊ほどしていくこともあるらしく、また、客を連れて来て深夜まで飲食し談合することもあるらしかった。彼も、また政代も、この土地では、なるべく人目につかないようにしているようだ。八杉は、軍部の嘗てのストック物資の不正取引に、なにか関係があるらしいと、沖本が私に囁たことがある。
それでも、政代は人目につきやすかった。娘の三味線の手ほどきを頼まれて、数軒の家へ出稽古に行っていた。祭礼の演芸会に出てくれとも頼まれたが、それはきっぱり断わった。
「お祭りの夜は、家でお酒でも飲んでるのが、いちばん楽しいわね。こんなこと、わたし初めて知った。」
「酔っぱらって、山車にのっかって踊るのは、どうですか。」
「そんなのは、若いうちのことよ。」
彼女の眼がともすると、深い陰を湛えそうになるのへ、私は気がひかれがちだった。
樽神輿がまたかつぎ出されてるらしく、波のような人声がきこえてきた。それが消えると、遠い太鼓の音が続いたり絶えたりする。風が少し出てきたらしい。
お留さんが帰ってきて、甘栗の袋をあけながら言う。
「なんだか、降りそうですよ。」
「どうだったの。」と政代は尋ねた。
「あ、あれですか。丁度よいところで、半吉ですよ。」
「半吉……あたったわねえ。」
政代は私の顔を見て笑った。
「奥さんが大吉で、わたくしが半吉、よくしたものですよ。これがあべこべだったら、困りますからねえ。気違いのキチにしたところで、そうでございましょう。」
彼女が半キチだとしても、奥さんの方は大キチだと、お留さんは笑いながら話すのである。――ある時、外のお風呂に行って、帰りに、吾妻下駄の鼻緒をぷつりと踏み切った。それをハンカチで結えて
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