、そろりそろりと、重病人のように歩いていると、通りかかった医者らしい人が、どうかしましたか、と聞く。いいえ、と頭を振っても、足を指して、怪我でもなすった様子だが、と押っ被せる。下駄の鼻緒が切れたんです。はあ左様か、用心なさい。けろりとして、行き過ぎてしまった。その後で、政代は急に腹が立ってきた。下駄をぬいで足袋はだしになり、すたすた歩いてきた。片手にお湯の道具の風呂敷包みをかかえ、片手に下駄をぶらさげ、足袋はだしで、息を切らして台所口を引き開けた、その姿は、どう見ても狂人じみていた。
そのような話、私にはちと意外だった。
まだありますよと、お留さんは話すのである。――或る時、荷物があって、人力車で帰って来た。御苦労さん、と言い捨てて家にあがった。だいぶたって、お留さんが何かの用で、玄関の方へでてみると、俥屋はそこで、蹴込みに腰かけて煙草を吸っている。なにも人の家の玄関先で客待ちをしなくても、とお留さんが小言を言うと、奥さんはもうでかけないのかね、と俥屋は怪訝そうだ。聞いてみると、まだ俥賃を貰っていないが、と言う。それを政代に伝えると、笑うどころか、ひどく不機嫌に黙りこんでしまった。狂人のような不機嫌さだった。
そのような話も、私にはちと意外だった。
「だって、みんな、こうるさくて、気が利かなくて、先廻りばかりしているんだもの、癪にさわるじゃないの。」
「おかしいなあ……。なにも怒ることはないじゃありませんか。親切……お人よしの親切というものも、買ってやらねばいけますまい。」
「とんまだから、お人よしに見えるのよ。親切というものは、わたし、そんなものじゃないと思うわ。」
彼女のいう親切は、全く純粋無垢なものだった。人の顔を赤くさしたり、恥しい思いをさしたりするようなものは、どんな善良な気持からでたものにせよ、親切とはいえないのだ。本当の親切は、ただ自然な気持で、自然になされるものであって、相手の心に何の波も立てさせず、義務や負担はもとより、感謝の念さえも負わせないものでなければならない。――彼女の言葉を要約すればそういうことになる。そしてそれはもう、医者や俥屋のことを離れて、彼女自身のことを言ってるのだ。私に対する彼女のことを言ってるのだ。実際の事実もその通りで、私は無条件に承認しなければならなかった。――然しながら、彼女はどこでそういう親切を体得したのであろ
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