ツワイクのフーシェ伝である。そしてここで私は一種の砂漠の情熱に出逢った。
 ジョゼフ・フーシェの事を想う時、何かしら冷い戦慄を背筋に感ずるのは、彼と同時代の人々ばかりとは限らない。決して表面には立たず、裏面に隠れて策謀を事とし、変貌に変貌を重ね、裏切りに裏切りを重ね、ロベスピエールを陥れ、ナポレオンに悲鳴をあげさせた、この冷血で無節操で無性格な男は、常に疑惧と嫌悪との対象となり得る。
 三十幾歳の血気盛りなるべき頃からして既に彼は――ツワイクの描くところに依れば――殆ど亡霊のように痩せこけて骨と皮ばかりの肉体、角ばった線の見えるいやらしい細面、鼻は尖り、閉じたっきりの口は薄く狭く、重くて眠そうな眼瞼の下には魚のような冷い眼があり、猫のような灰色の瞳孔は硝子球のようであり、この顔の一切の道具、この男の一切のものが、いわば栄養不良で、まるで瓦斯灯に照らされたように蒼ざめて見える。彼に会った者は皆、此男には赤い血が循ってはいないという印象を受けるし、実際彼は精神的にも一種の冷血動物である……。
 だが、彼にもただ一つの情熱があった。諜報機関によって世の中のいろいろな秘密を探ること、影の中で策
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