砂漠の情熱
豊島与志雄
バルザックは「砂漠の情熱」という短篇のなかで、砂漠をさ迷う一兵士が一頭の雌豹に出逢い、生命を賭したふざけ方をしながら数日過すことを、描いている。描いているというよりも寧ろ、恐らくは何か聞きかじった話を元にして、いろいろ空想している。――それは砂漠のなかに於ける情熱であって、砂漠それ自体の情熱ではない。
ところで、砂漠それ自体の情熱というものも、想像されないことはない。そしてつまりそれは、砂漠的精神の情熱ということになる。
話はちょっと飛ぶが、後楽園のスタジアムはあまり恵まれた場所ではない。後楽園の深い木立は後方は隠れて見えず、前方は省線電車の高架、それから雑多な建物。スタジアムの内部は芝生の色も褪せ、風吹けば黄塵が渦巻く。だが、不思議なことに、天気の日には殆ど常に、前方の空中を或は高く或は低く、二羽か三羽かの鳶がゆったりと舞っている。野球観戦に疲れた眼をあげて、その鳶の飛翔を眺める楽しみを、多くの観客は体験していることであろう。――これを逆に云えば、鳶の見えない後楽園スタジアムは佗しい。
このイメージを発展さして、そして考えてみるに、鳶の見えない後楽園スタジアムが存在すると同様に、一羽の小鳥もいない心理風景も存在しよう。そしてこの心理風景は砂漠的精神に属するものである。
また、同じような話であるが、市内の四辻などに設けてあるロータリー区劃の中には、如何にも風流気に、芝生が植えられ、灌木があしらわれている。そして多くの雑草が芽生えて、思わぬ時に思わぬ花を咲かせている。この雑草の可憐な花が、時あって人の心を惹くことがある。これは自然の恵みだ。――だが逆に、塵埃をかぶり、ガソリンの悪臭をあび、日光に乾ききって、雑草の花一つ咲かぬロータリーは、如何に佗しいものであろうか。
このイメージから、一茎の花もない心理風景というものが想像される。そしてこの心理風景は砂漠的精神に属するものである。
砂漠的精神、そこには一羽の小鳥もいず、一茎の花もないが、然しそれでも情熱はあり得る。――そういう精神のことを、今私は考えてみるのである。眼前に浮ぶのは、ジョゼフ・フーシェなる人物である。
フランス大革命からナポレオン帝政を経て王政復古に至る時代の、影の人物、謎の人物としてのフーシェのことは、いろいろの人に取上げられているが、最も面白いのはステファン・ツワイクのフーシェ伝である。そしてここで私は一種の砂漠の情熱に出逢った。
ジョゼフ・フーシェの事を想う時、何かしら冷い戦慄を背筋に感ずるのは、彼と同時代の人々ばかりとは限らない。決して表面には立たず、裏面に隠れて策謀を事とし、変貌に変貌を重ね、裏切りに裏切りを重ね、ロベスピエールを陥れ、ナポレオンに悲鳴をあげさせた、この冷血で無節操で無性格な男は、常に疑惧と嫌悪との対象となり得る。
三十幾歳の血気盛りなるべき頃からして既に彼は――ツワイクの描くところに依れば――殆ど亡霊のように痩せこけて骨と皮ばかりの肉体、角ばった線の見えるいやらしい細面、鼻は尖り、閉じたっきりの口は薄く狭く、重くて眠そうな眼瞼の下には魚のような冷い眼があり、猫のような灰色の瞳孔は硝子球のようであり、この顔の一切の道具、この男の一切のものが、いわば栄養不良で、まるで瓦斯灯に照らされたように蒼ざめて見える。彼に会った者は皆、此男には赤い血が循ってはいないという印象を受けるし、実際彼は精神的にも一種の冷血動物である……。
だが、彼にもただ一つの情熱があった。諜報機関によって世の中のいろいろな秘密を探ること、影の中で策謀の糸を操ること、権勢を握って黙々と周囲を冷笑すること、即ち何等の理想も熱血もない冷かな打算とからくりに、全精神を傾注したのである。
こういうのを指して、砂漠の情熱と云ってはいけないであろうか。――彼の精神のなかには、空高く翔ける猛鳥はおろか、一羽の小鳥さえいないし、馥郁たる濃艶な花はおろか、一茎の野草の花さえ咲かさないのであって、謂わば不毛の地、砂漠にも等しいのである。而もそれ自身のなかに、やむにやまれぬ欲望、冷血動物的な情熱、凡そ人間的な欲望とか情熱とかには縁遠いそれを持っているのである。
連想は飛ぶが、夏の真昼、熱くやけた石の上に、亀が甲羅を干してるのは普通のことである。それは亀の習性であり、はがゆいような愛嬌がないでもない。また、日のあたった石垣の上などに、蜊蜴がじっと蹲まって、そのぎらぎらした色彩で息づいてる事がある。それもまあよかろう。――更に、ふだんは木蔭にでも潜んでいる筈の蛇が、草と土の匂いがむーっと漂ってる場所に、日光の直射を受けながら、とぐろを巻いてることが時折ある。その、草と土の匂いの中で日光に照らされてる蛇のうちには、如何なる夢想がはぐくまれることであろうか
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